こちらのブログをいじるのは数年ぶり。
あったことすら忘れていたが、
匿名で書けるスペースがまだ残されていたことに
感謝。これまでの思いはこちらに書いていこう。

久々に日記を読み返してみたら
そこには忘れていたけれども
たしかにあった、留学時代の
手応えが残っていた。
あれから約4年が経ち
今は教員として働いている自分がいる。

あのころ学んだことは
今の職場では全く使えないけれども
それでも今の人生の糧になっている。
現在進めている研究も
院時代に師匠の授業を聞いて始めたものが
つづいているもの。
全国レベルに一本論文を載せることが
できたのも、あのころからの積み重ねがあったからこそ。

院から4年。
現在の道に載るまでには
ずいぶんと時間が経ってしまった。
段々若くなくなっていく
自分がいるけれども
それでも確かに色々なことを
身につけて来ているんじゃないかな。
もちろん現状で満足できる段階では
ないけれども。
年をとるということはつまり
そういうことなのだろう。

結婚が決まった。
学生時代からずっと
寄り添ってくれた人。
直接言うには照れくさすぎるけれども
長い間わがままを通させてくれて
それでも待ってくれた彼女に感謝。
ぶつかることも多々あるけれども
今では一緒にいないことが
考えられなくなってきた。
でもこれから一緒に過ごす年月の方が
長いんだなと思うと
何か不思議な感じがする。

色々考えていた20代前半から
色々考えている暇もなくなってきた
後半戦を生きているわけだけれども
とりあえず日々に流されず
やるべきこと、やりたいことを
きちんと心に留めて生活していこう。
気持ちは固まっている。
あとは迷わず突き進むハートと
ガッツだけがあればそれでいい。

最後の日記を書いてから1年以上が経過していた。。
自分のこのブログの存在すら忘れていた今日この頃だったけれど、
久々に読み返してみると、書物と格闘していたあの日々を鮮明に思い出す。

あの頃と比べて今は・・・

毎日大好きとはいえないまでも、望んでいた仕事をし、
日々研究したことを実践し、反省を繰り返す毎日。
理論と実践でこうもちがうものかと、頭では分かっていたけれども
実際体験してみて実感するのとは雲泥の差があった。

だけど、ひとたび実践の世界に入っていくと、
そこで体験するさまざまなことが、自分の中に吸収されていく気がする。
それはもちろん栄養価の高いものだけではなく、時には毒になるもの、
精神的によくないもの様々だけど、そういうものを色々と吸収しながら
また違う自分になれればいい。

現状に満足してしまっている自分がそこにいる。
一人暮らすだけのお金を持ち、楽しく仕事が出来る仲間がいて、
自分の生徒にも恵まれている。何一つ不満がない状況とは言わない。
むしろ不満はいくつもあるのだが 笑 
それでも満たされた毎日を過ごす中で
これ以上何を望むのだと考える自分がそこにいることを認めたくはない。

自分はこれから何をしたいのか。
研究をしていきたいのか?
このままの生活を維持していきたいのか?

もっと考えなくてはいけない。
そう、もっと。もっと。

英国での講義もすべて終了し

残すところは講義の課題と修士論文のみ。


忙しさに追われていた10週間は

今まで生きてきた中でも最高速の速さで駆け抜けていった。

この10週間で自分は一体何を学んだのだろう。

朝の早くから起きて受けたインプットの授業。

その夕方から緊張しながら望んだteaching practice

週末に苦しんだテスト論。

自分の力を注いだ授業はこの3つだけだったけれども

たくさんのことを与えられた。

でもそれらをすべて吸収できるかは今後の自分次第なんだろう。

やらなければいけないことは山積みだ。

憂鬱なようでやりがいを感じる。

自分が伸びる可能性はまだあると確信できるから。


フラットの友達が4年付き合っていた親友と別れたらしい。

日記を読んでしまった。

そんなそぶりを全く見せない彼の態度は

時に痛々しく見える。

それでも自分は何も言われていないのだから

何も知らないふりをしておこう。


4年か・・・


ふと自分と重ねてみる。


あの頃は幸せだった。

お互いにもうこのまま将来一緒になるのだとまで思ったあの頃。


彼女は元気だろうか。

彼女のことだからきっと生活を楽しんで暮らしているだろう。

優しい音楽に囲まれ、自ら描いた油絵やデッサンに囲まれて。

一緒に歩くことはもうできないけれど

日本に帰ったら一度会いたい。

あれからお互いがどんな道に行ったのか

話し合うことも悪くは無いだろう。


珈琲メーカーを買ってみた。

大したものではないけれども

部屋が珈琲のいい香りでいっぱいになる。

これから部屋にいることが多くなるだろうし

少しでもいい環境でいい仕事をしたい。

そのための良きパートナーになってくれるといい。


自分の道を進む。

寄り道も楽しみながらのんびりと。




更新が滞り気味。

現在学期末のエッセイを4つ抱えていて忙殺されている状態。

そのうち2つは終わったとはいえまだまだ先は長い。


そういえば今学期のメインとも言える

Teaching Practiceが終了した。

この授業では実際の生徒を相手に90分の授業を3人または

4人で分担して教えることになっている。一人の持ち時間は20分。

短いけれども中身は濃い。


生徒となる学生さんは皆自分より年上。

こういう状況って本当に奇妙だと思う。

自分よりも年上の人に教えてもらったことはあっても教えたことは無い。

そして大人の方に教えてもらったことはあっても教えたことは無い。

両方の意味で今回のTeaching Practiceは得るものがあったと思う。


ところで修士論文ともエッセイとも関係のないリサーチを1つ始めた。

内容は企業秘密 笑 隠すほどのものではないのだけれどもね。

日本にいる頃は、拙い論文ではあったが学会に投稿させていただき、

掲載させていただける機会があった。しかし英国ではそうはいかない。

だからといって何の研究もしないままでは

日本で大学院生をしている人たちに対して一歩も二歩も遅れていってしまう。

そうならないためにもどこかで発表の機会を見つけて挑戦していかないと。。。


気持ちだけが焦ってしまう。

心は熱くても頭は冷静に・・・・。


修士論文のお題も決まり、エッセイも1つ終わらせてひと段落。

これから修士論文執筆のために先行研究の分析をしなければいけない。


自分の修士論文は実験系の論文になる予定なので

まず似たような研究をしている論文を集めるところから研究は始まる。

とりあえず論文を集めて集めて、そして読む。


学部のときの卒論と違い、目標とある程度題目を絞り込んでからの

スタートなので、最低限手をつけなければいけない所ははっきりしている。

とりあえず12,3個ほどある似たような研究を徹底的に分析するところからだろう。


先行研究の分析と一言で言ってしまえばそれまでだが

この作業は非常に険しい。そしてこの部分を如何に精緻にできるかで

論文の質が決まるといっても過言ではない気がする。

ジャーナルに載っているような研究でも自分に都合のいい結果の論文だけを

引用し、自分の実験の結果に当てはめ、さも自分の論が正しいかのような文章を

書いている論文も少なくない。


しかしそれでは公平とはいえないだろう。

研究の目的は自分の論を突き通すことではなく真実を突き止めることだと思う。

そのためには自分の論に反対する論文も多々集めて、

その部分を検討することも忘れてはいけない。


と自戒をこめて書いてみる。

とりあえず修士論文提出まであと半年。

データ収集に1週間、分析に1ヶ月、執筆に二ヶ月と考えると

あと約3ヶ月は論文を読むことができる。

その間に先行研究を徹底的に分析してみよう。



最近忙しくて更新できてない。


今月に入ってプロジェクトを3つ抱えることに。

と言っても自発的にやりだしたものが二つあるから文句は言えないけれども。


人間忙しくなるとしゃきっとするもので

意外とまだまだ限界は先だと思い知らされることもある。


今は院生だからずっと研究中の身。

研究といっても実際はずっと論文を読み続けているのが現状。

でも何かを読むにしても目的がないと

だらだら読むだけになってしまう。


そこで目標を学会発表、もしくはジャーナル投稿に定めてみる。

テーマを決めてそれについてずっと読み続けていけばきっと

だらだら読むよりもいいものができるだろう。


MAレベルだからといって

ジャーナルに投稿してはいけないわけじゃない。

人間何事にもチャレンジする精神が大事。


でもとりあえず今日は寝よう。


先日に続いて読売新聞の相談欄から


『担任の一言がきっかけでいじめに』

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/qanda/consul/20060203wn02.htm


この内容を見ると回答の中にもあるように

原因は保護者と教師の連携にあるように思う。


教師と親の連携というのは口で言うのは簡単だが

実は非常に難しい状況にあるのが昨今の学校の現実だと思う。

以前どこかでも書いたが教師になれる基準が以前と比べて

容易になっているせいか、教師を尊敬したくでもできない保護者が多い。

確かに大学を出てすぐの教師や日々を漫然とこなしているだけの

教師を尊敬しろと言われてもこちらも難しい。


実際保護者の方が学校に来られて話をされるときは

保護者参観等をぬきにするとほとんどが生徒に問題があったときであると思う。

そのようなときに保護者の方は冷静でいられるわけではないし

そのような状態の人に話された教師のほうも冷静ではいられないように思われる。


もう1つ。

保護者と教師の連携を考えるときは

常に二つのことを考えなければいけないと思う。

1つは保護者が教育(教科教育ではなく人格面の形成等)に熱心であること。

もう1つは教師が一人で抱え込まず学年全体、学校全体で問題に取り組むような

チームを編成して解決に臨むこと。


前者については保護者ともっと密に連絡をとれるような姿勢を作ることだと思う。

保護者の方が学校を訪問される機会というのはどうしても限られている。

仕事や家の事情があるからその部分は仕方のない部分である。

しかし、保護者の方が認識しなければいけないのは

子供達は家にいるときと学校にいるときでは態度が180度近く変わる子もいるということ。

学校でおとなしいけれども家に帰ると良くしゃべる。

または学校にいると荒れているけれども家ではおとなしくしている。

どちらも容易に想像ができる範囲ではあるが意外と見落としているのではないか。

保護者は子供達が学校でどのような態度をとっているかを知らないし

教師は子供達が家でどのような行動をとっているかを知らない。

その二つを補うためにも教師、保護者間の連絡は欠かせない。


ひとつの手段としてE-mailを使う手がある。

個人情報の保護等にも関わるので簡単に導入などとはいかないのだろうが、

例えば教師と保護者用のメーリングリストを作成して

子供をあえてはずして保護者と教師がダイレクトに話せるような環境を作る。

普段保護者が学校の子供達の状況を知るには学年通信などを通じて行われているが、

これだと教師ー子供ー保護者と子供が間に入るので本当に問題のあることは

話せないこともあるのではないか。

また、E-mailを使うことで時間的な制約から開放されるので保護者も時間を気にせず、

教師も時間を気にせずメールのやりとりができる。

学校でサーバを立てて管理すれば情報の保護という点でも問題はなくなるのではないかと思う。


後者について


後者についてはクラスの問題を担任一人の問題と抱え込まないことにつきる。

担任一人で30人、40人の生徒全員の状況をくまなくつかむのは不可能である。

学年主任は他のクラスの先生、ひいては保健の先生、校長、教頭をも含めて

全員で対処していかねばいくべきである。

そのような場合間違っても責任の所在なんて考えてはいけない。

責任を追求することが大事なのではなく問題が解決されることが大事なのだから

保護者も教師もその部分を忘れてはいけない。


と自分なりにどう対処するかを考えてみた。

本当に教師になったときどうしますかね。みなさんなら。


教員としてはどう思うのでしょうか。

読売オンラインの 教育欄に面白い(と言ってしまっては質問者の方に失礼ですが)事例が

載っていたので紹介


http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/qanda/consul/20060127wn02.htm


もし生徒が週一で欠席したら・・・。

まず親御さんとの連携をしっかりとるでしょうね。

ここの事例では高校生を例にとってますが

いくら義務教育ではないとは言え、

だめなことはだめとしっかり言うことが大事だと思う。


子供という存在は社会を知らないため

世の中なんとでもなると思っている。それが良くない。

世の中意外と厳しいものでしっかりした能力を持っていない者は

社会で認められることはない。


ある小説にあったが、現代の若者は

苦労を惜しむ傾向にある。

自分はやりたいことがないと言う人に限って

それを探そうとしていない。


自分の進む道なんて高校から大学に上がるときに

すんなり決めれるものではない。

多くの人が心のどこかで迷いながら、自分の道を

手探りで探していく。大学を卒業して仕事に就いても

きっとそうだろう。


話がそれた。


この事例の生徒のように週一で休んだら・・・


なんとか学校に来させようとするのが

自分の考え。そのためには家庭訪問だろうが

親御との連携だろうが使えるところは

すべて使っていくのが筋じゃないかな。

もちろん本人と話すこともお忘れなく。




YOMIURI ONLINE を斜め読みしていたら高校生が小学生の下校指導の補助をするという企画を発見。


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『犯罪から小学生守れ・・・集団下校に都立高校生付き添い』 (読売新聞 2006年1月28日)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060128i212.htm?from=main2

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児童を狙った犯罪が増える中、児童の集団下校のみでは

教師・保護者共に心配な部分があるように思う。

やはり大人が付き添っていないと不安であるが、

勤務等がありそのような時間が取れないのが現状。


そこで目をつけたのが高校生ということらしい。

一般の高校生ならば16歳から18歳の、大人になる一歩手前の生徒達。

彼らが社会貢献できるならばこんなにいいことはない。


高校生も部活や勉強のほうで忙しいのは十分分かるが、

このような社会貢献をできることは高校生達の自立心を養ったり

将来に向けて何かのヒントをもらえる人もいるように思う。


そして何より素晴らしいと思うのは、高校生が社会で活躍できる点ができるということ。

人から頼られて、ありがとうと感謝される仕事を経験することは人生において非常に重要だと思う。


この案、現状では部活等や帰宅時間の違いで難しいようだが、

例えば委員会の活動の一環としてや、生徒会で企画を持ち出したり

色々と工夫の余地はありそう。教師と生徒が一緒に話し合って、

こんな心温まる企画を出してくれると、地域との連携も取れて一石三鳥にも四鳥にもなりそうだ。



英国の大学院生は新学期が始まるとすぐに図書館に列ができる。

日本の大学で図書館に列ができるというのは稀だ。

この違いは一体なんだろうか。


それで思い当たったのがエッセイ。

日本の大学院は分からないが、こっちの大学院では

レポートというには生ぬるいような3000語のエッセイが各授業の最終課題として

出題される。テーマは一応先生のほうでいくつかを用意してくるのだが

先生によっては自分で授業に関連したテーマを決めて先生と話すことで

自由に選択できる場合もある。


たかが3000語のエッセイ。

これが一本で、かつこれだけに集中できるならばたいしたことはない。

しかし、エッセイのための本、論文を読みつつ、授業の準備もするとなると

話は別だ。

しかも授業を4つくらいとっている学生は

やらなければいけないことをすべて管理するのは至難である。


私の今の一日の大変は論文を読むことに追われる。

授業の準備のため、ある授業のエッセイのため、そして修士論文のためと

名目は違えど論文を読む毎日。

読んでも読んでも量は減ることはない、

むしろ1つ読むごとに関連する論文を押さえておきたくなり2つくらい増えるというほうが

普通である。


きっとこれだけの勉強をすることはもう一生のうちでないだろう。

一度地獄を見てこれからの人生の糧にするのもいいかもしれない。