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 「ひゃぁ~、すごいぞ、見てみろよ」と、夫が、朝早くから、すっとんきょな声を出している。2階の窓から、裏のヒマワリ畑を見ているのだ。千本はあるだろうか?このところ続いた猛暑のせいで、町中のヒマワリがいっせいに咲き始めた。出勤前の慌しい時間帯にもかかわらず、夫は、窓からうっとりとヒマワリ畑を眺めている。
 私たちが住んでいるN町は、栃木県南部にあり、田園風景が広がる何の変哲もない田舎町である。東北本線で池袋や上野まで70分ということもあり、近年、首都通勤圏として、新興住宅地も建設され、新住民も増えた。その新住民の一員である私たちも、この町へ家を建てて、11年目になる。だが、何年経っても、この町は、何の特徴もない退屈な町に変わりはなかった。ところが、その退屈な町が、年に1度、輝く時期がある。それが、ヒマワリが咲く今頃。役場が、町起こしのため、休耕田にヒマワリを植えることを奨励して、「関東一のヒマワリの町」としてPRしている。7月も半ば過ぎになると、町のあちらこちらに黄色のヒマワリ畑が目につくようになる。ヒマワリの種から油やクッキーを作る目的の農家もあるが、大半は、町から出る「ヒマワリ助成金」を目当てに、休耕田にヒマワリを植えているのが現状だ。今年は、我家の裏の畑にも、農家の人が、初めてヒマワリの種をまいた。
 出勤する夫を駅まで送り、寝室の布団を整理するため、2階へ上がった。廊下の窓から、まじまじと、ヒマワリ畑を眺めた。千本近くのヒマワリたちが、華麗に黄色の花を咲かせている。その見事さに、しばし、圧倒され、息を飲む。よく見ると、同じ顔を持つ花たちが、いっせいに東の方を見ている。不思議な風景だ。風が吹いた。すると、ヒマワリたちは、同じように、いっせいに葉っぱをゆらし始めた。
 ふと、こんな場面を、かつて、どこかで見たような気がしてきた。そうだ、映画だ。そういえば、ソフィアーローレン主演の「ひまわり」という映画を、一緒に観たのは、J子だったけ? 広大なロシアのヒマワリ畑の中を、ソフィアローレンが歩いている姿に、大泣きしたのを覚えている。あれは、仙台の女子高校時代だった。学校帰り、制服のまま、一番町にある名画座で観たような気がする。私が通っていた仙台の県立女子高は、良妻賢母を伝統とする躾の厳しい進学校。当時、制服のまま、喫茶店や映画を観ることも禁止されていた。だから、私もクラスメイトのJ子も、薄暗い階段を下りて、地下にある小さな映画館に入るのは、まるで悪の秘密クラブにでも行くような、スリルがある快感だった。そこで観た数々の洋画は、私たちにとって、まるで夢の世界。「旅愁」「ローマの休日」「自転車泥棒」・・・それらの世界を観ることは、落ちこぼれの高校生活を送っていた私にとって、現実逃避できる至福の時でもあった。そういえば、J子は、あの頃から、映画が好きで、文章も得意だった。
 あの時もちょうど、ヒマワリの季節だったと思う。今から12年前になる。上京したばかりのJ子に会いに行った。世田谷のアパートに一人で住んでいた彼女は、今夜は、飲み明かそうと、夕方、近くの銭湯の野天風呂に案内してくれた。そして、二人で、湯船につかりながら話すことは、やはり高校時代の話。「ねぇ、あのデブのT先生、覚えている?」「あぁ、家庭科で裁縫を教えていたTでしょ」。T先生は、当時、毎朝、校門の前に仁王立ちになって、登校する生徒たちの服装の検査をしていた。髪型、制服はもちろん、ソックスまで検査する。当時、ソックスは木綿の白、それも、2巻きに折ると決められていて、彼女は物指しを持って、生徒たちのソックスの折幅を検査していた。百キロはあるかもしれない巨体を、ユサユサさせながら、腰をかがめ、物指しで計る。元の姿勢に戻すたびに、息をハァハァさせて、汗をふいていたのを覚えている。ちょっと、おしゃれな生徒は、足を長く見せるため、ソックスを短く、丸めていた。そんな生徒を見つけると、T先生は、その場で、こてんこてんに叱りつける。「ねぇ、Teacherをテ―チャーと、おもいっきり日本語読みにしていた英語の先生いたね」「そうそう、あだ名がやっぱりテーチャー」。私たちは、湯船で、大きい声で笑った。
 J子は、母子家庭だった。国鉄に勤めていた父親は、小学生の時に亡くなったと聞いている。成績はトップクラスだったけど、高校も奨学金で通っていた。生活保護を受けていたらしい。結局、国立大学合格ラインにいた彼女だったが、卒業後、大手銀行に就職。その後、お互い、疎遠になっていたが、彼女が上京する前の年に開かれた、一緒に活動していた合唱部の同窓会で再会したのだ。
 J子は、長いロングの髪をタオルでまきつけ、湯船で背伸びした。しばらくぶりで会う、その横顔は幸せそうに見えた。その時、彼女は、夢だったシナリオライターをめざして、上京したばかりだった。長い退屈な銀行勤めは嫌だったと、きっぱり言いきった。銀行の制服を脱いで、認知症になった母親を施設にあずけ、今やっと、自由になれたという。有名シナリオライターの弟子になり、自由に書き始めていた彼女は、少女のようにはしゃいでいた。「今、どんどん、テレビドラマの脚本を書かせてもらっているの。打ち上げのパーティで東山紀之にエスコートされたけど、彼って礼儀正しい青年ね」。二人で、銭湯の野天風呂から東京の空を見上げた。「東京には自由があるね」と、J子が言った。だが、彼女は、翌年、後方からきたトラックにはねられ、あっけなく、この世から去ってしまった。まだ、43才だった。
 そういえば、町では、又、今年も、週末からヒマワリフェスティバルが開催される。ヒマワリ迷路や模擬店が並んで、町外からも人が集まって、にぎやかになるだろう。さっき、夫が、「今年は、畠山みどりショーが野外ステージで行われるんだって。行くかい?」と、言っていたのを思い出した。