前回、犯罪について記載しました。
その先にあるものには触れていなかったので今回はそれがテーマと思います。
(よく脱線するのでゴール設定がぶれることもしばしば)
最近の犯罪というのは至極凶悪/凄惨なものが多いと感じるというのは前述の通り。
昨今では、裁判官制度の導入により、裁判の質そのものが複雑になってきているように感じます。
もちろん、裁判自体の複雑さは旧態依然である。
判決を下すもの、判断するものには、それ相応の責務・重圧がかかってくるものと思います。
しかし民間は、それは「プロ」の仕事だから・・と理解してきました。
裁判官というのは、そういうものだからそれを抱えるのは当然という認識があったのは事実です。
ともすれ、そこまで裁判官について考えていなかった民間人が多いのも事実ですけど。
しかし、裁判官制度というのは、その旧態依然の認識を大きく覆す制度となりました。
上記の責務・重圧が民間人(=司法関連には何の関わりもなかった)の眼前に来るというのだから
たまったもんではありません。
一体、何のための制度なのか?
何のために、その道のプロでもない人が人を裁くというシステムを作ったのか。
物事の公平さ、民間感情の導入、司法体制の理解、なんでも結構ですが
それと引き換えに人間一人を裁くというのは非常に重い。
しかも拒否が基本的に不可というのだから、強制力の高さも大したものである。
犯罪の大小で、判決のし易さが決まってくるものではありませんが
やはり重罪ほどそれに対する刑罰も重くなります。
そんな中、裁判員の中に過るもの、測り知れません。
最近では凶悪犯罪も多くなっていることから、その判決に直面せざるを得ない
民間人の裁判員も増えることでしょう。
最近では死刑などの判決について、よく行政や民間でも議論されています。
千葉景子大臣などは死刑廃止などを強く表明しておりますが、その反対意見も多いですね。
制度としての死刑と、実際に下す死刑判決というのは異質なものです。
あくまで、制度は制度。
その場で考え、判断し、下す死刑を選ぶ裁判員は制度では済まされません。
被告の人格、性格、家族や第三者との関連など、総合的に見ざるを得ず
それを踏まえての判決です。
何とも民間人、いわゆるアマチュアが遂行するには厳しいものですね。
人が人を裁くことはできない、などよく聞きますが
裁判員制度が導入されたことにより、少なからず人が人を裁くという要素が出てきたような気もします。
絶対尺度の法律が決める、というより人間感情がどこまで介入されるのか。
プロの裁判官であれば、極力感情に左右されない判決が下されるでしょう。
しかし、アマチュアの民間人が感情に左右されずに判決を下すことは、果たしてどこまで現実的なのか。
自身もその場に立ってみないと、到底分からないのでしょう。
しかし、罪は罪です。
正当で、公平な刑罰を与えることは重要です。
過剰でも、不足でもないことが必要ですので、ブレないこと判決を下すことが求められます。
何とも、難しい裁判状況です。
ただでさえ、原告・検察官・弁護士と立場が2局になっている状況で第三者が介入するというのだから
混乱は必至でしょう。
永山基準なんて言葉もありますが、過去にとらわれず、その時その時の判決が真っ当であることが
重要に思います。死刑のあるなしを問いただす必要があるのか?
死刑は廃止するものではなく、死刑という事例もあるという認識は残すほうが良いと思います。
その時に立ち会った民間人裁判員には、難しい局面もあるでしょうが
あくまで第三者として、公平に冷静に見たときの判決を下して頂きたい。
それが、民意となるという理解も実は持っています。
なんとも複雑な内容です。
自身も立場を色々置き換えて、考えてしまいますがどれも息詰まって考えるのを辞めるほどです。
どうか、後の感情や後悔として残らないように誠実で冷静で公平な判決が下されますよう。
人は多かれ少なかれ、罪を犯しながら生きている。
罪人が罪人を裁くとは罷りならん。
裁判ニュースを見るたび、そんな台詞が頭を過ってなりません。