新年になってから帰りが遅くなることが多くなってきました。

しかし、今年の1月は遅い時間帯の乗車率が高いように思えます。


新年会の影響なのか、結構な人だかりで11時過ぎた電車でもぎゅうぎゅう詰めのことも多いです。

景況感が若干ではあるが、明るくなってきたのか?と思いながら、少し前向きな気持ちで乗っている一方で

やはり混雑の具合に多少のイラつきを覚える日々が続いてます。

(相変わらず、電車遅延なども多く余計に苛立ちが隠せない・・・)


そんな車中で珍しい光景に出会えました。


座っている酔っぱらった男性が、足の不自由な方に席を譲ったということです。


一見、普通かなとも思いますが、よく考えてみると

酔った男性の心境は称賛されるべきことだと思うわけです。


普通酔っていたら(自身もそうだが)、面倒で居眠りしていたいと思っちゃいます。

それよりも、周りに気を配り、足の不自由な方に目を配るということは出来ないのではないかと思います。


しかし、男性は偶然にも目に止まったその方に対して、躊躇することなく席を譲るのです。

小さい出来事ですが、心温まるなと思いながら見入っていました。


親切心といえば、最近「タイガーマスク」の話題が多いですね。

最初は聞きなれないフレーズから、あまり関心を示す内容ではなかったのですが

波紋の広がり方に興味を覚え、ついつい聞いています。


今回は小学生2人が、その「タイガーマスク」に扮して寄付行為を行ったというから驚きました。

正直、なんて度胸のある子なんだと思いました。


先の電車の件もそうですが、親切を発揮するにはどうしても「勇気」がいります。

もちろん、その「勇気」がなくても正々堂々と当たり前のように親切を提供できる方も多いです。


この「勇気」というのは、一概に指示せず、様々な様相を見せる言葉だと感じます。

勇気を出して、声をかけた。勇気を出して、周りの目を気にせず善意を行う。

このような「勇気」であれば、容易に想像できますが、もうひとつ。


勇気を出して、自身の阻害要因を打ち払った。


これが大きい気がしてなりません。

人間だれしも、内面は統一されておらず、迷いや悩みが生じてしまう生き物です。

ですが、勇気を出して、その迷いや悩み、不安を打ち払ったということは非常に大きな意味合いを持つと思います。


今回のタイガーマスク女児は、どのような「勇気」を打ち出したのでしょうか?


小学生という中で、出せる勇気の範疇を大きく超えている気がしてなりません。

成人をとっくに過ぎた自身も、我振り返る事柄でした。


日本人は古来より、地域社会という小さなコミュニティを築くことを大切にしてきました。

両隣の住民からお向かいさん、なんていう言葉も久しい限りです。


差し入れなんて言葉も、近隣住民には聞かないフレーズです。


地域社会から核化社会への移ろいが顕著な現代において、今回の件は大きな意味を持っていると思います。


今回の一連のタイガーマスク騒動(悪い意味ではなく、世間を賑わしているという意味で)は

時代の何を映しているのか?


タイガーマスクに扮した人間が偉くて、扮しない人間が偉くない。ということではありません。

単純にタイガーマスクに扮した人間が素晴らしいのです。

比較することではありません。


彼ら彼女らは、タイガーマスクを名乗り、助け合い・ボランティアを実行して

世間に何を訴えたかったのか?何を突き動かしたかったのか?


知る由もありませんし、量り知れるものでもないと思いますが

メッセージ性は高く、また同時に国内に良い共鳴運動を巻き起こしているのも事実です。


このような良いシンパシーが、小さなコミュニティを築き、互いを助け合う、良い社会構築への

一手となることが、喜ばしい限りです。


一部、企業の宣伝やら偽善やらという批判的な意見もあります。

これはこれで、また一方で頷ける部分もあるのかと思いますが、仮にそうであったとしても

今回の件は単純に国内の多くの方に心情の温かみを伝達させる触媒の役割を果たしているようです。

それは、素晴らしいことであり、またうれしいことでもあると思います。


この騒動が続くということはなくても、この騒動が切っ掛けで、社会人の目覚ましい革新へと

繋がることが出来れば、今回のタイガーマスク各位の動きは非常に優位性のあるものであったのではないかと

考えてしまいます。


まあ、そこまで愚考することなく、純粋にボランティア精神を表に出し

各個人の中にある煩悩を切って、行動に移したタイガーマスク各位の勇気には頭が下がる思いです。


偽善、それでも善です。

胸を張って、周囲の人と助け合える社会がたくさん出来て、各地で共鳴現象が起きれば

日本はお金の意味ではなく、心身がもっと裕福になっていくのでしょう。


今日はこの、二つの小さな「勇気」に感動を覚えました。


シャープが「ガラパゴス」と命名した電子書籍端末を発売するという記事が日経に出ていましたね。名前に工夫があったので興味を引かれましたが、アップルあたりが先行していた電子書籍の世界もいよいよ本格的に”当たり前”のツールになってきているような気がします。今まで横目で見ていた自分もちょっと食指が動き始めています。

アマゾンなんかでは自分がどんな本を読んでいるかによって近い世界のものを自動的に選択して紹介してくれますが、これが端末でも起こるということなのでしょう。無限に存在する情報の中から、勝手に自分好みを選んでくれていると、自分では意識していなかった自分が出来上がっていくような、好奇心とも恐怖心とも言えないような現象が起こるような気がします。

技術の発達が人間を変えて行く部分と、技術が人間の普遍(そして不変)な部分によって制限されるということの両方の現象が起こっていると思います。しかし、とにかく自分が動かなくても、「○○な人」向き、と定義された情報の群れがいつでも自分めがけてやってくることの快感と不快感の両方を想像してしまいます。

便利を利用したから起こる成長や達成と、不便ゆえに与えられた満足や達成の両方から、”いいとこ取り”ができるような器用な人間がどれだけいるのか、っていう興味も湧いてきます。

いろんな形での生存競争が存在するけど、これからは自分は動かないで洪水のような情報の中でしっかり自立でき、その中で自分の幸福に役立つものを”自ら”選べる能力を競う、言ってみれば「知的生存競争」とでもいうような時代になるのかもしれませんね。そうなるとおそらく自分の幸せとそれに寄与するものを選択できる能力が重要になってくるのだと思います。

この流れは、個々に違う価値観を作りそれを認め合う世界につながるかも知れませんが、一方ではサブミナル的にマスでの洗脳を容易にすることに通じているとも言えるでしょう。

本当に大変な時代がやってきたと思うのですが、スマートフォンなんかを本当に生活の一部として使っている今の若い人にはこういう感覚はあるのだろうかと思います。

その便利さを享受したい自分と、それに怖じけづいてしまう自分の両方がいます。皆さんはどう思います?

そういえば、去年掲載した内容に続いて、テーマを引き続き掲載しようと思います。


昨年、法務省が東京拘置所の死刑執行場をマスコミに公開したそうです。千葉法務大臣が死刑の是非に関する”国民的議論”を促すために命じたとか。


そもそもあまり話題にしたくないテーマだし、考えれば考えるほど難しい問題です。人が法の名の下に人の命を奪うことを認めるのかということです。


「人」が意図をもって命を操作する形式には殺人と自殺があります。普通、自分の命は自分のもので、他人の命はその人のものだと考えますから、親子であろうが夫婦であろうが、殺人は自分の命ではないのにそれを奪うこと、と定義してもよいでしょう。そしてそれが法的に許される場合は戦争による殺りくと死刑です。


戦争が”許される殺人か”というのはまた難しい話ですが、事実として国際法では禁じていません。


従って、「法的」に許されているという意味では、死刑と戦争による殺人は同じことかもしれません。


”戦争反対”というのは簡単ですが、戦争体験者とそうでない人の言葉の重さには差があります。死刑反対というのも同じように、被害者の家族とそうでない人では圧倒的にその意味することの重大さは違うでしょう。


”人は進歩するのか”とか、”進歩とは何か”というのは個人的な哲学や倫理の視点でしか語れません。


僕は、”人の本質は昔も今もそして未来も変わらない”と考えています。知識や経験や立場で変わったように見えるけど、根っこのところは変わらない。つねに他人に優しくありたいと思いながら信じられない残酷仕打ちを平気でしてしまう。厭なやつでも信じられない善行をすることもある。悪魔は天使がなったものだとキリスト教では教えています。


しかしながら、少なくとも”考えたくない”というのは許されないのだろうと思います。そういう意味でこの公開は意味のあることでしょう。裁判員裁判とは法によって人が人を裁くことに参加することで、その極限の世界が死刑判決の言い渡しです。そして裁判員制度はもう始まっていてかなりの経験者を生んでいるからです。


でも難しい。自分の中で「当事者」と「非当事者」の両方の声がします。想像力の限界とその不純さに悩んでしまいます。


だから、この公開の目的が、「国民的議論」のためという言葉の”偽善”と、それによって安心してしまいたい”弱さ”と、それを「法的」に可能にしてしまう”民主主義”の怖さを思います