民主党ネタには食傷気味になっていたので、興味の対象になっていませんでしたが、当選当初のころは”「最小不幸の政治」を目指す”というのはなかなかうまい事を言うと思って取り上げました。消去法で迫るローリスクな政治ということをうまく言っていると思います。市民運動出身だけあってさすがに板についている自然な言葉だと思います。

確かに誰かさんの「友愛政治」よりは100倍大人の言葉で、筋は通っています。だけどいまいちプロフェッショナルな言葉ではないな、というのが第一印象です。

良く考えて見ると、民主主義というのは、大勢の人が一人ひとりミクロな選択をするだけで、結果として大きな選択ができるシステムです。そういう意味では確率的に、「最小リスクの政治」と言ってもよいと思います。それは国民性悪説に基づくリスク分散を意図したシステムだからです。全体主義や共産主義に懲りた歴史のせいでもあるでしょう。でも国民を本当は信じているシステムではないですね。敢えて言えば国民のいい加減さを信じているシステムでしょう。確かに首相が変わっただけで支持率が3倍。

しかし、これは政治家も国民もミクロ型になってスケールが小さくなるという負の副産物を必然的に伴うシステムであることも事実です。機密費の公開などの透明性追求も一種の自己批判や自虐本能の現れでもありますが、結局のところ孤独に勝てないアマチュア政治家でもできる政治。政治のアマチュアイズム化と言ってもよい現象を生む事になるのです。谷亮子の立候補に象徴される”身近で、愛される国民代表”というタレント政治です。

選挙という膨大なミクロの判断の集積が最終で唯一の審判になる。だから何度も何度も選挙があり、また首相が辞任し、また選挙がある。選挙がビジネスで出来れば本当によいお金儲けが出来そうである。

今から思うと鳩山さんはとんでもない子供だったのかもしれない。今の民主主義は結局政治家と国民の両方を子供にするシステムなのかもしれない。小さなものに幸せを感じられる習慣をつける政治なのかもしれない。そんな人ゆえ小さな幸せすら国民にもたらす事が出来なくなる。

菅さんには、是非とも「最小幸福の政治」だけは目指して欲しくないと思っている訳ですが、そもそも「最小不幸」と「最小幸福」ならどっちが良いと思います? 
「知には情を説得する力がない。」
「満足というものは情がするものである」

これは昭和の大数学者(というより哲学者かも)である岡潔の言葉です。痺れる言葉だと思いませんか?

最近鞄に忍ばせて時間があるときに読んでいる本のひとつに、岡潔と小林秀雄の対談「人間の建設」があります。学生の時に読んでも消化できなかったものが、もの凄いスピードで頭に入ってきます。言っている言葉がどういう意味か、今の自分にとってどう解釈される言葉なのか、流石に学生時代よりは経験の厚みが増しているせいか、読んでいて実によくわかる。

岡潔に触発されて、「幸せは心がするものである。」という言葉が浮かんできました。今度、社員の賛成が得られたら我が社ののキャッチコピーにしたいと思っています。彼は「知・情・意」という言い方を好みますが、今の日本ではこのバランスが極端に悪くなっているのだと気付かされます。

家庭、学校、会社、そして政治。メンタル不全に伴う事故の多発は自信と希望が喪失しているから・・・

”幸せと思える力をどう取り戻すか”が大きなテーマになっています。どうすればそれが出来るのか。岡潔の言葉にハッとさせられました。 

ニュースで、楽天が社内公用語(?)を全て英語にしたという話題を紹介していました。ついにそこまで来たかという印象です。英語ができないと昇進しないとか。そういう会社は結構増えているようです。昔の、英語ができるとキャリアが広がる、というような悠長なものではなくなってきているようです。

しかし、です。やはり私の意見としては”ちょっと待った”というのがあります。それは最近の国語力の低下とか、言語文化に対する国家的手抜きというような風潮を憂いていたからです。


英語はとにかくコミュニケーションの道具でしかありません。問題は、何をしゃべるか、何をアピールするか、自分の意見は何か、その人と自分の違いは何か・・・  そういうコンテンツが少ない人の上手い英語というのは実際かえって軽薄に見えてしまうと思うからです。上手い英語かもしれないけど大人の英語ではない可能性があります。そういう経験を何度もしたし、そういうテーマで散々外人と話したこともあります。


英語公用語化というのを「グローバル」と勘違いしている人がいます。多くのことがいわゆるグローバルな視点で理解しなければならない時代になっていることは事実です。しかし言語とグローバルは何の関係もないのではないかと言うのが私の持論です。地球が小さくなって、すぐどこにでも行けてどんな情報でもすぐ入る時代だからこそ、「日本人」とか「日本の文化」が大切になってくるし、その基盤の希薄な人はそもそもまともな外人さんには相手にされません。


「世界人」のような人はいないし、そんなものが存在できるようなら戦争はとっくになくなっているでしょう。


英語を情報の入手手段や、情報発信手段として習得するのは大切なことです。日本の英語力が世界の中でも相当下のほうに位置することは憂慮すべき事態ではあります。しかし、それはそもそも日本語や日本文化が一定の深度をともなったものであり、人口も多く国内市場も大きいことと無縁ではないような気がします。


GDPや人口の大きさでトップ10の国で公用語を英語(アングロサクソンは別として)にしている国はないでしょう。

国家が一定の見解をしっかり持っていないからこういう”グローバル企業”がどんどん増えてくると思うのです。


一企業の問題ではないやっかいな問題、という気がします。


言語と文化の問題はちゃんと教育・政治の場で改めて議論しなければ、そのうちどこの国の誰か自分でもわからない国民が英語力が上がったと言って自慢するような国になるのではないかと心配しています。