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以前、「日本人という人間の真善美」というタイトルで5記事書きました。

 

伝統武道を習っている人間として、

誰もが武道に魅力を感じるものではないことはわかりながらも、

誰もが武道と禅の伝えるエッセンスを身体と心と呼吸で深めていくと、

もっと良い人間世界になっていくだろうとは常に感じています。

 

日本という国は、昔はそのエッセンスがスピリットとなりたっていた国です。

日本は特殊、日本人はちょっと違う、というのはそのあたりから来ていると、

私は感じます。

 

例えば先日取り上げられいた、フィギュアスケートの羽生結弦選手。

 

スケートはスポーツですし、武道はスポーツではありません。

 

しかし、今回のオリンピックで羽生選手が見せたものに触れ、

感動を覚えなかった人は、あまりいないのではないでしょうか。

 

正直なところ、私は彼のことをよく知らなかったし、

中継も見ていなかったし、メダルもただ「へえ」と思っていたのですが、

たまたま出くわしたインタビューや、

実際演技を見てみて、この人すごいなと感動しました。

 

まさに、古の日本人が持っていた、「スピリット」「真善美」を、

スケートというスポーツを超えた域で極め続けて、

深め、完成のない完成を常に求めているからこそ溢れる気迫、オーラ、

人間離れした集中力、テクニックレベルなどを超えた技、

まさにすごい芸術家、だからです。

 

スポーツもいろいろとありますが、

団体ではなく、個人という孤独と責任を完全に引き受け、

とある瞬間のために、最大の自分という何かを超える。

 

選手の中で、うまい人、成績のすごい人、有名な人、

賞をとりまくっている人、などたくさんいますが、

人間、個性という枠をどこか超越して、

そのスポーツの「スピリットそのもの」が彼、彼女を引っ張っている人間、

というのは、やはり特殊であり、特別で、一握りしかいないでしょう。

 

そういう人間が共通に持っているものは、

自分を信じる、という部分を超えて、

逆に「自分に負けない」という精神力。

 

そして「自分」に限度をあげないから、リミットレスな努力と、

完成度が繋がり、「スピリット」が引っ張っている。

だから人間離れした、肉体美やスキルやエナジーが湧き出ている。

それらに包まれて、それらが結果を出している。

 

「スピリット」とは、「真なる集中」のちから、エネルギーなので、

「自分のもの」ではないんです。

 

天から、禅から、道から、聖なる愛から、絶対無からくる。

 

だからもう「個人」の演技じゃないんです。

そういうあり方、人間性、生き方を、昔の日本人は、

武士から農民、商人、職人、主婦まで、多くの人間が持っていた。

知っていた。

少なからず、真似していた。

そういう空気、エナジーが、スピリットが宿っていた。

 

例えばスポーツ、例えばビジネス、例えば文化、家事。

 

なんでもそうできる可能性があるということです。

 

多かれ少なかれ、身体の動作、錬金と、

心の動作、錬金の統一性が同時にあると、

「スピリットそのもの」

が生まれ出て来やすくなります。

 

要は、どれだけ禅の中で、「なんでも」極めていくか。

深めていくか。

「もの」にするか、同時に、人間性を超えていくか、深めていくか、

が、「スピリット」というマジックの力が入るか、宿るか、

になってくる。

 

それが人格であったり、その人がいるだけで空気が変わる、

何か特殊なものが生まれる、ある、につながります。

 

羽生選手が「右脚が頑張ってくれた。感謝しかない」と言っていましたが、

ここまで極めていくと、身体は身体で、自分じゃないんですね。

だからこういうことが自然と口に出てくる。

 

右脚は自分じゃない。

右脚は右脚。なんです。

 

だからリミットがない。彼にはない。

 

演技前にリチュアルをするそうですが、

十字に腹で横線で武士の「士」と書いて、

天からハートに合掌していましたね。

 

スピリット。

 

彼は侍の目をしていますね。

 

なんでもありの世界だからこそ、

何かを極める。

何かを深める。

 

それは何でもいい。

 

自分が無であると知っているからこそ、

自分を超えたところで、自分の世界をとことん極め、演じる。

 

本当の自分を知った上での自分。

 

スピリットは見つけ、宿すものです。