子供達との夏休みがもうすぐ終わろうとしています。

 

異常な暑さが続いたヨーロッパ各地と相反して、

イギリスは夏らしさが欠けた7、8月でした。

 

私にとって、この夏のテーマはずっと「日本」でした。

 

夏休み中時間ができると、日本という国の歴史や文化などについて

リサーチをし、文献が書けそうなくらい読み漁りました。

 

終戦記念日のあたりには、自分の中に長年存在しているミッションのようなものの根底に、

直接触れたように感じました。

 

私は14歳の頃、

誰の影響を受けたわけでも、

日本や家族が嫌いだったわけでもなく、

むしろ日本も家族も大好きで仕方なかったのに

「日本で高校まで行って、イギリスに進学して住もう」と決めました。

 

それから一つも迷うことなく大学院まで行き、

結婚し、子供を生み、在英20年になるのですが、

16歳で初めてこの地を踏んだ時から

ずっと変わらないものがあります。

 

それは、日本人であることの誇りのようなものです。

誇りと言ってしまうとどこか恥ずかしいような、

漠然としているけれど間違いないようなもの。

 

学生の頃「日本人の誇りって?」と訊かれて、

うまく答えられたないことの方が多かったのですが。

 

留学生という立場におかれ、

自分とは違う誰かを見下すとか、批判するとか、

優位な気持ちになるとかは微塵もなく、

ただ「私は日本人」であることが誇らしく、

素直にいつも嬉しく感じたんです。

 

どこにいても、何をしていても、何があってもなくても。

 

例えば宗教が違うとか、肌の色が違うとか、

習慣が違うとか、価値観が違うということで、

すぐ国や人を「いい、悪い」「優れている、劣っている」などと

決めつける風にしか見れないのであれば、

私は18歳という幼い年齢でこの地に住み始めることはしなかったでしょう。

 

自分だけがマイノリティーである立場に何度も置かれ、

無視されたり、肩身が狭い思いをしたり、

多種多様な違いを持つ人達とミックスしながら、

「私はあの人とは違って日本人だから優れている」というものではなく、

ただ単純に「私は日本人である」という根拠のない静かな誇りだったんです。

 

若いうちに海外に出た一人として、

周りの日本人、そして私自身が洗脳されたまま自分に向けていた概念のようなものは、

「日本人は自分の意見がない」

「日本人はすぐ言いなりになる」

というものでした。

 

16歳の夏休みに初めてロンドンで語学留学をした時、

私の語学力の足りなさだけではなく、

「意見を伝えよう」「何か言わないとおかしい」という意志のようなものが

他国の人達より少ないことに気づきました。

 

進学してからも、「思っていることをはっきりと伝えなくては」

「日本人だから、アジア人だからとバカにされたくない」などと、

自分と周りの思い込みが作り上げた発想がずっとつきまとっていました。

 

長くなりました。

次回に続きます・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚