今日は長いです。またちょっと特殊なことを書いたので、

ご興味おありの方だけどうぞ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

 

 

「科学的」なエネルギーのアルケミー、チャクラの変容、
それに伴う心、体、意識や人格の変容などは内に燃える神妙な質を持つ、

特殊なエネルギーの表れです。
 

真なる理に誰もが生かされ、包まれ、それ自体でありながら、

命の系の内容はそれぞれの個人によって、全く違います。

だから「個性」があり、それぞれの運命がある。

 

真理、いわゆる命の真性にふと触れる、

合点は誰にでも起こりえること。

しかしながら、ブラックホールのごとく刺せば刺すほど奥行きがあるものなので、
一暼とそこからと、またさらなる深みとは天地の差があります。

精神的な言い方をすれば、命の真性それそのものになる「悟り」とか「涅槃」、
あるいは今よく耳にする命の系を表現する「意識の覚醒と進化」という類にも、
段階や層が自然とあります。

 

一度自分の本質のエッセンスを知ったら(悟ったら)

精神的な探求が終わるというメッセージはもちろん一理ありますが、

つまりそれまでの段階が完全に終わることであり、

「本質を知るため、自分とは何かを知るための探求」という意図がなくなり、

「それそのものとして完全にある」へ流れていきます。

 

その流れの中で、さらなる突き刺し、深みは当然存在していきます。

 

それは「そうであるべきだから、こだわろう。新たな探求をすべき」

と決めつけて、がんじがらめになる流れでは決してなく、

ありのままに「それそのもの」=純粋なる命の本質としてあり続けているからには、

新しい気づきと変化が自然とただ起こり続け、

深みを帯びていくからです。

それは体験すると自然な事実です。

 

ノンデュアリティーのメッセージと似た、

すべての本質とは「不生不死」であるとシンプルに伝えた盤珪(ばんけい)という禅のマスターも、

真なる法は深すぎて、10のうち大抵人は究めても8くらいで満足してしまうと言っています。

途中で満足するから、完全な真理の目を持つものはほとんどいない、と。

 

盤珪のこんなエピソードがあります。

 

いつものように食事を取っていた時、

とても美味しかったので弟子でもある料理長にそう伝えると、

弟子は「良い品が入ったので作りました。師には特別に多く盛り付けましたよ」

と言いました。

それを聴いた盤珪はすぐさま箸を置き、こう嘆きました。

「食事にまで差別があるとは、私が教えている意味がないではないか」

盤珪はそれから3週間ほどおかずを一切食べず、ご飯だけをとったそうで、

料理長は気づきを受け、同じようにそうしたそうです。

 

盤珪がもし、「すべてはただ自由だり、解放されたものであり、

なんでもいいし、なんでもただ起こっていて、楽しくて、豊かで、ワクワクが溢れて、

遊び、感じるためにここに生きていて、自分の思うがままなんでもすればよいし、

起こっていることに意味はないのだから」という部分的な意識の段階で、

Unborn, Undyingという、「全ては死にもせず、生まれてもいない

という教えを伝えていたとしたら、

 

それが真理の全てであったら、

彼は弟子の話を聴いて、「ふーん、そうか」と言ってただ食べ続けたでしょう。

ましてそれから数週間も半断食はしなかったはず。

 

おそらく多くの人がこう思うかもしれません。

 

「先生だから弟子に教えるというスタンスを常に意識しているからだろう」

 

「特別あつかいして欲しくないのだろう」

 

「禅はハードコアだから、断食とか修行とかの内容でそうなんだろう」

 

「好意を受け取らないとはなんて無礼な」

 

「禅だとはいえ、ただこだわっているだけでは」

 

「昔はそれくらいが当たり前なのだろう」など。

 

どうして「全ては生まれても、死んでもいない」ことを伝えた盤珪が

食事ごときの出来事にこだわり、断食をしたのか。

 

それは、「先生には特別に盛ろう」という料理人の配慮は

「生まれたもの」だからです。

 

「不生不死」である命の流れが、「師だから」という意味を持ち、

ストップがかかる。

 

何十の器の前で黙々と料理を盛り分けている行為の中で、

「生まれても、死んでもいない」不生不死の命の本質それそのものが自分同一であれば、

何をも「差」や「違い」や「別」など、「止まること」が自然と現れないからです。

 

別の禅マスター沢庵も同じことを「寄留」と言っています。

 

つまり、私の本質とは止まることのない進行形それそのものということです。

 

それ以外はどんな些細なものでも、行為でも、在り方でも、感じ方でも、言葉でも、

「止まる」=「幻想の私」という偏見、概念、特殊扱い、意味、価値、

過去などのデーター、記号からのリアクションであるだけ。

 

ですから、悟りを得た後、

放浪者になり、乞食になり、

一見自由気ままにリラックスしてただ楽しく生きたように見える禅マスターの一休や良寛なども、

寺に居座ることなく、地位を保つことなく、乞食、放浪者で「それそのもの」を究めつづけたのです。

 

本当に何もないながら、完全に自由自在であり、真なる「無我」、すなわち

生まれもせず、死にもしない「起こっているだけ」の本質それそのものとしてあるということは、

あまりに全てにおいての実証だからです。

 

一休などはとんち話がありますが、それはまさに記号、データーがない彼の生き様。

 

その瞬間、不生不死である、だけか。

 

人格となり、生き方となり、発されるエネルギーで、

「止まりが微塵もない」からこそ、

禅が最終的に辿りつく命の本質は、慈悲慈愛、中立、中道、の完璧さからくるハーモニーなのです。

 

だから本当の平和への道なのです。

 

人は「止まって」ばかりいるから、差別が起こり、

誤解が起こり、身勝手になり、「私、私、私」でいっぱいになります。

それが命であると、人生であると、勘違いして眠ったまま生きている。

 

 

古の「悟り」や「目覚め」は、ただ厳しくストイックに思われがちですが、

それは本物は、そこかさらにあり、すべてにおいての体現であることの深さを、

自然と実感していたからでしょう。

 

盤珪が生きていたあの時代で、彼は「顔を見るだけで、声を聴く前に、姿を見るだけで、どれだけ本質の悟りの段階にある者かがわかる本物のマスターがほとんどいなくなった。情けないことだ」と嘆いていました。

 

禅はスピリチュアル其れそのものであるからです。

武道家が禅を自然と求めたことも、上記したことにつながります。

ストイックにただ一見見える、古いものに見える、感じられるものは、

深みのある真実を伝えています。

 


ある一定の部分だけを永遠に突き詰めても、
その部分だけの深みだけであるように

反対に表面的な全部を触ってみても、
それはただの浅さとしかならないように。