庭のフーシャが満開ガーベラ

 

今日はとても長いですミーアちゃん3

 

ご興味のある方だけどうぞ

 

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子供はフリースピリットであるとか、

誰々は(何々は)スピリットが強いとか高いとかいう言葉があります。

 

スピリットとはなんでしょうか?

 

キリスト教では三位一体、

父なる神、子なる神、聖霊なる神と表現し、

 

中医学では似たような観点で(完全に似てはいませんが)

精、氣、神と表現する。

 

別の言葉で言い表すと、

ボディ、マインド、スピリット。

 

キリスト教の言葉は分かりやすいので利用すると、

大まかに次のようなことが言えます。

 

父=虚空、精神、真心、無、空、聖、天、本質の相、無限、無償、絶対愛、

男性生、陽、もしくはすべての母胎であり、すべてを生み続ける何か

 

子=事象、有、物質、生、体、命、地、女性性、陰、現実、すべて生まれている何か

 

父と子をつなぐように、ホーリースピリット、聖霊がある。

 

スピリットとは元はラテン語で息、呼吸、勇気、活気、魂などを意味し、

古ギリシャ語で大いなるものの息、吹く、という意味からきているように、

言葉では説明しきれない「力」「エネルギー」のある形態のこと。

 

古代から数字の3が意味するシンボルは沢山あり、

またピラミッドが三角形であるように、

これら3つの結び、合体、総合が「私」であり、「すべて」です。

 

精神と体は一つであるとはよく耳にしますが、

そこには常に神妙なる「スピリット」が関わっています。

 

スピリットとはまさに古典の言葉が伝えるように、

「大いなるものの息吹」のようなエネルギー。

すべてに力を与え、力を創り、力そのものである何か、です。

 

中医学では、精(力)は氣(力)にも骨(力)にも血(力)にもなり、

またその氣が神というさらなる「段階」「層」「レベル」

「次元」「質」へと変容していくことを説いています。

 

ですから、「私」という個すなわち全体は、

常に進化することが自然であります。

 

「私」はただ「父」である虚空、無ではありません。

 

「私」はただ「子」である物質、現実でもありません。

 

「私」はただ「スピリット」である息吹でもありません。

 

それらすべての三角、トリニティーのユニティー(結び)なのです。

 

このことは禅の教えにもつながります。

 

禅は言います。

 

「実相とは、仏性とは、真理とは、真実とは道とは、

 

無ではない。

 

無ではない、でもない」

 

その瞬時に「どこにも行けない」「どこにもありえない」どこかに投げ出される。

 

その0の体現こそが「道」だと。

 

 

「スピリット」は人間、生き物、命、自然、すべてに宿るエネルギーです。

 

フリースピリットとはその息吹が全身全霊である様。

幼い子供は誰もが2つくらいまではフリースピリットです。

 

ボディー、マインド、スピリットのユニティーを再び蘇らせるのが

例えば武道であり、ヨガであり、気功、呼吸法、

瞑想や座禅などの活動と呼ばれるものです。

 

スピリットである聖なる息吹=エネルギーは「真剣」であり、

まっすぐであり、込めるものであり、投射するもの。

 

それはまさに「今この瞬間だけ」「今ここ」「マインドフルネス」

と禅でいう、真なる集中力(スピリット)。

 

なのでヨガでいう、見えないものを見る第3の目を開き、

使います。武道も初段からはそれで動くようになっていくように稽古します。

その霊眼は武道が強調する胆力とリンクしています。

胆力は霊眼と同一です。

丹田と霊眼がスピリットを投射します。

 

スピリットがない武道は、相手ではなく自分に負ける。

敵は自分しかいないことがわかると、無心という精神ができ、

体の動きを練習で重ね、自然体で動けるように努めて、

そこにまっすぐな集中のスリピットの息吹を結び、込めます。

 

それが古武道の叡智です。

だからこそ難しい。

それは日々進化し続け、深め続けるからこそ完成のないアートであり、

一生のライフワークであるのです。

 

武道だけではなく、日常こそがそのトリニティーの表現であり、

何をしていても、誰もがそう生きることができます。

 

例えば子供といても、

例えば道を歩いていても、掃除をしていても。

 

子である体の動きと、無心という虚空の父、

そしてそこに「スピリット」を込めるのです。

 

すると、すべてが三角に結びつき、

その場、その時、何においてもただ必要なことを

自然体であるようになります。

 

そこには「ツール」も「概念」もなく、

本当の意味での「ありのまま」が起こり、降ります。

 

そういう生き方を、昔の日本は肚の底で知っていました。

 

今はあらゆる「やり方」や「あり方」が討論され、

何かをまた別の方法で置き換えているようなことを追求する傾向にあるように

思います。

 

何かを別の何かで埋めても、

その何かがなくなり、変わったら、また別の何かを探る。

 

「自分」というものを説く人が増えているけれど、

その提案や方法や論議を全くの白紙にして、

それを唱えることを今すぐに完全に放棄しても、

同じようにただ豊かで自由で迫力と集中のある「自分」であれる人は、

いるのだろうか?

 

別の言葉で言うならば、唱える自分、聴いてもらえる自分、

フォローして、憧れられている自分、がいつかどこかで何か変わっても、

今の「スピリット」はあるだろうか?

 

ということです。

 

「スピリット」とは、「自分」のエネルギーでありながら、

個性の自分のそれではありません。

 

無という母の愛があるからこそ、「スピリット」は清らかであり、

母の、父の愛、すなわち、宇宙以前の何か、

神秘そのものの力が濾過され、子供である「自分」に使われるのです。

 

だから「私の、自分が、これが欲しい、あれがいる」ではない段階の

大いなる息吹、なのです。

 

それを知って初めて謙虚という文字が理解できる。

 

慎み深く、虚に還ることで、

虚の子供として、愛として、この体で生きることが

誰もの天の命なのです。

 

 

 

愛のスピリットは一言で言うならば

 

「いま、これだけ!」

 

「真剣」

 

「集中」

 

そしてそれは自分を通してすべてに投射される。

 

私が伝えていくことはこのあたりのことです。

体と心、呼吸、スピリットなどの結びです。

 

性、生、聖なる女性の。。のメール講座でもお伝えしましたが、

性のことなどは全くまた同じものの別の側面です。

 

 

ワークショップ、お話会など、柔軟な内容でいつでも主催してくださったら伺います(^∇^)

てんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてん

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