ティーチャートレーニングの感想(8月20日) | pallaviよっしーのshanti life

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あるがままの自分を受け入れて 宇宙や自然を感じながら shantiな生活を送りたい。

山口県田布施町に住む そんな pallaviよっしーの日々の徒然です。ヨーガスタジオ「シャンティライフ」代表。

8月20日のTT感想

 

内容:内分泌系・消化器系、慈悲の瞑想、チェアヨガ解説、ティーチング

 

・チェアヨガっていうスタイルでなかったとしても、

ブロックの一部として椅子も用意していたら、軽減法の一つとして使えるのはとてもいいと思った。

臨機応変に使えたらいいと思った。

ティーチングで立ち木のポーズを自分が失敗した。

 

コメント:別に先生が失敗しても良いんですよね。

綺麗にポーズをとりたいって思うけど。先生でも足つくんだって、安心できます。

ブロックの一部として椅子。それでいいんだと思うんだけど。

みんなの心のブロックが外れないと…

わたし今公民館でチェアヨガをやっているんですけど、

膝が痛くて正座もあぐらも組めないという方が何人かいて、

チェアヨガにしたんだけど。

それで最初、「椅子を使う方法がありますよ」って言うと、

「いや、みんながマットでやっているのに、わたしだけ椅子とか使えんですよ」って言うので、

「じゃあみんな椅子でやりましょう」って言うと

それも「わたしのせいで」みたいな感じになる。

なかなか集団の中で誰々さんは椅子、

他の人はこれって慣れていない人は抵抗のある人もいるのかなって思いました。

スタジオでは、誰々さんはブロックこの高さってできるけど、

ずっと長くやって来られていた方で今まで出来ていたっていう考えもあったりしてね。

雰囲気をみながら、取り入れられることをやっていくのがいいのかな。

 

・先ほど聞いた「40代はもうシニア」という言葉が結構ショック(笑)

(医療系のヨガの先生でそのように言う方がいたことを紹介した)

今の話を伺い、年齢もいろいろだし、その人の機能性もそれぞれなんだけど、

YOGAって最後には自分と向き合うということなので、

あんまり年齢とか関係なく、人と比べるということもなく、

少し今よりも良い状態になるってところを促していけたらいいなという風に思いました。

 

コメント:シニアヨガというジャンルが確立されてはいるけど、おっしゃった通り、関係ないんですよね。

年齢より、個人のコンディションで全然ちがうので。

そうは言ってもみんなこだわりがあって。

昼のクラスは70代中心。夜はOLさんたちが来られている。

内容は同じ内容をやっているんだけど。

シニア世代ではない人が、シニア世代の方が多いクラスに来ると、居心地が悪いのか、

ここはシニアに来るところだと思われて、わざわざ夜のクラスに移られる。

内容は同じなんですけどって言っても。

同じような人が集まっているところの入りたい。

生徒さん同士でコミュニケーションがあったりするわけではないですけど。

クラスっていろいろな要因が関わっているんだなって思いますけどね。

参加者の顔を見て決めるみたいなね(笑)

そんなところもあったりするので。

だから内容で選ばれているわけでもなかったりするところがあったりね。

結局はその人が居心地のいい空間かどうかってことが大事な要因だったりするのかなって思います。

だからその人のこだわりがバイヤスになって、

このクラスはいいとか、わたしに合っているとかいう風になっている気がします。

インストラクターとしては、そういうバイヤスも段々外していけるように関われたらいいなって思いますが、

先入観を持って来られる方もおられるので。

そここだわるか、っていうこととかいろいろあります。

でも寄り添いながら、「それって関係なかったわ」って本人が気づいててくれたらいいけど。

その人がどういう想いを持って来られているかっていうのを把握できるようにコミュニケーションが大事。

今わたし公民館クラスでカウンセリングを5分から10分程度やっています。

どういう気持ちで、どういうバッググランドで来られているかって知っておくことも大事。

 

・昨日から瞑想の実践が始まって、日常とかけ離れる時間があるっていうことが

すごく自分の精神安定上いいんだなってことを実感しています。

今日朝早く目覚めて、夜明けの薄暗い中で、

昨日聞いた「ズキューンと刺さる言葉ってなんだろう」って考えました(笑)

シャヴァーサナのときにどんな言葉かけをするとその人の心身がリラックスしていくのか、

っていうことを考えたりして、考える時間も自分にとって心地よい時間でした。

瞑想中の「苦手な人」って苦手な人だけど、その人の苦手な部分が見えてるだけで、

その人にもいいところはあるし、誰かにとっては自分のそういうところが嫌だって思われているかもしれないし、

苦手って突き放すというか決めつけたりするのも、自分自身が苦しくなったりすることなのかなって。

まずは自分の嫌な部分とかも受け入れていくと、周りに優しくなるんだろうなって思いました。

 

コメント:よく言うのは、嫌いな人とか嫌な人って、

自分の中にある嫌いな部分や嫌な部分をその人に投影してみているので、

結局自分を見ているっていうふうに。

自分の嫌なところを見せさせるために、その人はわたしの人生に存在してくれている。

それを演じてくれている。って観ていくと、それも受け入れられるわたしになれたらいい。

そんな風に向き合えたらいいですけどね。

嫌いっていってそれで終わりにしてしまうけどね。

すごくわたしにインパクトを与えてくれているっていう、嫌いだって思えるってことは。

受け取っていけるのが瞑想であり、YOGAの学びになっていく。

 

あと、自分に刺さった言葉を覚えておくこと、記録しておくという活動が始まると思います。

この言葉はいいなっていう言葉を言葉集めが必要になってくる。

これは瞑想の時に使える言葉だって集めていったり。

共感できる体験が自分の糧になるっていうのは、そういうこと。

しんどい思いをしたときに、かけられて嬉しかった言葉って言うのが、その答えになっていく。

寄り添える人、自分と関わる人、自分に集まる人っていうのは、自分と波長があっている方なので、

自分の言葉が響きやすいところにいる。

自分を癒せた言葉っていうのは、それが周りにも癒す力を持つ言葉としてある。

人のためにって思いながら、結局は自分をどう癒していくかを追求する先に、

周りに波及できるっていうことになっていく。

だからいいスイッチが入った。

どういう言葉が人を勇気づけるかとか、ズキューンとさせるかってことを探求するっていうのが、

すごく大事な時間の過ごし方。

 

・都会に住む友人に紙媒体でのヨガの案内をかき集めてきてとお願いしました。

自分の中で進めた部分。寝る前の瞑想をするようになった。

 

・慈悲の瞑想で、大事の人や嫌な人の顔がはっきり浮かぶこともなく、

漠然と他者の幸福を祈るという行為がなじみがなさ過ぎて、抵抗もあった。

なんでかなって考えていたんですけど、

慈悲って仏様の領域だと思っていて、自分なんかがって。

宮沢賢治に出てくる、「みんなの災害のためなら僕の体など100ぺん焼いてもかまわない」

それくらいじゃなきゃ言う資格ないかなってずっと感じていたんです。

YOGAするようになって最近は考えが変わってきて、

まず自分、自分がシャンティになったら、今度は顔が見える範囲の周りの人ってどんどん広げていったら、

そしたら顔の見えない人まで、祈ることが出来るんじゃないかなっていうのをすごく感じています。

わたしは自分ですら癒せていないというか。

朝起きて、ダラダラとスマホみて、頭痛いなって思いながら出勤したりとかで、

自分にとって居心地のいい環境とか、自分の気持ちを明るく楽しくしてあげるような行動を出来ていないなって。

そういう風なことをちょっとずつしていくのがいいのかなって、最近考えてます。

 

コメント:わたしがわたしの一番の友だちなので、わたしがわたしのためにできることをできるだけやる

最初はそういう思考になれないよね。わたしも若いころはそうだったかなって思います。

片や、聖者、聖人のような自分の顔をちぎってあげるアンパンマンのような精神に対しての

あこがれみたいなものも同時にあって。

人はそこまでなれるのかって思ったときに、

YOGAの知識を、心から入るんじゃなくて、知識から入っても、わたしと周りは同じ一つだし。

結局人のために何かしてあげるって、それすらも自分のためなんです。

自分に痛みがあるから。

大事な人が悲しんでいるのに、自分に痛みがある。

人の痛みが自分の痛みになる。

自分の痛みを取り除きたいから、その人のためにできることをやる

それが普通で、視野が広がると広がっていくっていうこと。

なので基本はまずは自分を癒す。

これ、順番が逆の人、自分が癒されていないのに、ボランティア活動をして、

自分はエネルギーがスカスカで、わたしが本当は癒してほしい、わたしがもっと可愛がって欲しいのに、

ボランティア活動をするのに、自分がカラカラなのに怒りを感じて、

すごく歪んでしまう人とかいるんですよね。

ボランティア活動をすることによって自分の中から愛を湧き上がらせていくっていう風に働くこともあるけどね。

怒りに変わる人が中にはいてね。

満たすところの基本は、まずは自分を癒す。

自分を癒せない人は、恋愛依存症とか、人に癒してもらおうとして、異性に依存したり、

あるいは友だちに依存したりって、依存関係が起こる人たちもいる。

それじゃあダメなんですよね。

結局自分が自分のことを一番分かってあげているので。

結局は自分と向き合うしかない。

慈悲の瞑想がヒットしなかったら、別にそれじゃなくてもいいんですよね。

まずは自分から満たしてあげる。

自分のためにできることを見つけて、やっていくってことを切り替えていくと、自分の変化が起こってくるかなと思います。

 

・慈悲の瞑想の時に、自分の心の反応に注意して観ました。

「わたしが幸せでありますように」って言ったら、もう一人のわたしが「もう幸せじゃん」って(笑)

「恐れから解放されますように」って「もう解放されたじゃん」(笑)

「簡単に生きられますように」って「簡単に生きられるね、よかったね」って(笑)

もう一人の自分が「全部叶ったね」って(笑)

他者への祈りも、あまり強いものが無くて、自分が100パーセント大丈夫になると、

周りも大丈夫に見えて、そんなにみんな苦しんでるのかな?とか。

本当は大丈夫なんだけどな、みたいな。

その苦しみも含めての体験というか。

周りの人の幸せも、苦手な人の幸せについては祈る部分が出てきた。

苦手な人っていうのは、わたしのことを心配したり、口出ししてくる人。

お願いしていないのにアドバイスしてくる人とかが今苦手な状態で。

わたし、大丈夫なので。それはあなたの不安でしょ。

あなたの不安をわたしに投影しているだけでしょって思うので。

わたしの心配しなくていいから。どうぞあなたが幸せになってくださいって。

それも過去の自分を投影していると思うんです。

自分も自分が満たされてなかった時って、相手を変えようとしたり、相手を心配したりしてたんですよね。

今自分が大丈夫になって思ったのは、自分を変えられようとすることってこんなに不愉快なんだなってことに気づいて。

やっぱり自己受容と、他者からの受容。

ありのままの自分を受容してもらえるって求めているんだろうなって。

ってことに自分が気づいたので。

自分が変わったので、これから外側の世界も時間差で変わってっていくんだろうなって思います。

相手のことも、YOGAのクラスに来てくださる方のことも、変えようとするのではなく、

自分が助けてあげようとか、癒してあげようとかするんじゃなくて、

もう、大丈夫な人、この人は大丈夫。

わたしがYOGAをやりたいって思ったから、来てくれた人に、一緒にシェアできたらいいなって感じで

最近はそういう気持ちでレッスンをしていて。

そうすると自分が楽で。

それが相手にヒットするかは分からないけど。

昔はもっとガツガツして、ヨガの良さを分かってもらおうって、この人に良くなってもらおうって、

思っていた時の方が、自分も苦しかったし、

空回りしていたような感じがするんですけど、

今はすごくリラックスして、クラスができるようになったなって。

慈悲の瞑想の時に、わたしは本当に変わったんだなって、祈る必要が無くなったんだって感じました。

昔は慈悲の瞑想もやってました。

メンタルトレーニング、相手の良いところだけをみようと。

カルマヨーガって言うんですかね。

積み重ねていったら、ホントに自分が変われたので、よかったなって思いました。

 

コメント:なるほどね。いろんな過程を経て、今のところにいらっしゃるんだなって思いました。

通りますよね、自分ができることをしてあげたいって思う気持ち。

それも自分の投影ですよね。

わたしは慈悲の瞑想はそんなにやってないんですけど、幸せを祈るマントラは唱えます。

自分の中にこうであって欲しいっていうのがまだあるんですよね。

世界が幸せであって欲しい。

悪いニュースとか見ると、痛みが来る。

傷ついている人をみると、痛みがくる。

でも全部それも必要で起こっているんですよね。

悲惨なようにみえることも全部イーシュワラの現れとして起こっている。

なんの痛みもない世界が理想の世界かって言ったら、この世界は痛みも苦しみもある世界も含めて、

必要な世界として、イーシュワラが現れている。

世界の痛みをなくすためにわたしが行って何かをするかと言えば、やらないんです。

できないんです、わたしには。

なので自分の気持ちの軋轢を解消するために、祈りがある

わたしの中の痛みは祈りによって解消されていきます。

今傷ついているあの方が、それも必要な学びとして気づいて、受け入れて、オッケーが出せていけるように、

祈りに変換していく。

自分の中の痛みを変えていくための一つの大事なアイテム。

 

・わたしが今やりたいと思っていることに全力で頑張ればいいんだなって、単純明快に考えようかと思いました。

ティーチングでは、YOGAと言えば太陽礼拝っていうのが自分の中であって、

パワーYOGAとかが流行った時にかっこいいなって思っていて。

シャンティライフの太陽礼拝のワークショップに参加したりしていました。

太陽礼拝を伝えられるように頑張っています。

 

コメント:練習しないとうまくならないから、この場は練習の場なので、

失敗してもいいので、チャレンジする。

太陽礼拝のリード、覚えたらスムーズにできるんだけど、

呼吸と連動しているので、待ってもらうってできない。

テンポと呼吸に合わせてっていうのをずっと続けてやっていかなくてはいけないので、難しい。

それもやらないとできるようにならないので、チャレンジ。

ティーチングに関しては30分のクラスで、どう満足感を得てもらうのかって考えると、

太陽礼拝みたいなヴィンヤサとか、しっかりと動いて、

短い時間でしっかりやったって感覚をえてもらうにはすごくいいですよね。

わたしは普段90分のクラスは、じっくりとシャヴァーサナから始めてやってるけど、

エンディングも瞑想を入れて、じっくりやっていけるのは90分のクラスだから。

30分でのコントロールをしていきましょう。

 

・今日はお盆でクラスが無かったので太陽礼拝ができてよかったです。