ザ・プレイヤー 1992.10.1 オーチャードホール | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 CNNのショービズで見ていると、1位になるような映画はだいたい想像がつく。そこに意外性はまったくないと言っても良い。つまりアメリカ人の好む映画の傾向は、はっきりとしている。まずスターが出ていて、コメディーで、サスペンスがあって、どんな悲しい状況があっても、ハッピーエンドであること。映画館でポップコーンを頬張りながら呑気に過ごす数時間があり、気持ち良く映画館から出られるような映画であること、これがアメリカで当たる条件だ。

 

 もちろんアメリカ映画は全てそういうことを目指して作られているわけではないが、ほとんどがそうだ。だけど、それを責める気はない。なぜなら映画とは、そういうことも考えて作らざるを得ない宿命を背負っているからだ。1本作るのに、数億円かかり、それを回収するには一般大衆に見てもらうしかないのだから。それは芸術至上主義とは相反するもので、そこが映画作家の苦しむところであろう。でも、それは第七芸術と呼ばれる一番新しい芸術である映画の生まれた時から持っていた特性のようなものなのだし、このことは頭に入れて全ての映画作家は作品を生みだしているはずだ。

 

 グリフィン・ミラー、若いプロデューサーだ。彼のもとには、毎日数多くの人が訪れ、電話がかかり、多くのシナリオが届けられる。彼らに会い、話を聞き、シナリオを読み、判断する、何を? 彼がYESと言えば、映画が作られるし、NOならば、映画にはならない。映画を作ると言って、始めに思い浮かぶのは監督だが、実はプロデューサーがGOサインを出さない限り、映画は作られることはない。思い通りの映画を作りたいのだったら、自分でプロデュースをもしなくてはならない。要するに、自分で金を集めるところから始めなくてはならない。理想を言えば、監督は金の心配なんかしないで映画作りに専念すれば良いのであって、と行きたいが、そうも行かないのが厳しいところだ。

 

 彼のところに、絵はがきの脅迫状が届く。その文面から推すと、どうやら以前持ち込みのシナリオを断った相手の一人らしい。盛んに脅しの文句が書かれて、今にも殺しに来かねない様子だ。なんとか対策を立てないと危なそうだ。

 

 ハリウッドの敏腕プロデューサーが歩けば、映画の関係者に会う。この映画の面白いところは、実にたくさんの俳優たちが出て来ることだ。ほとんどが、彼に会うと、手をあげて、やあと挨拶するくらいのものだが、つまり実名で出演という、よくある手かもしれないが、これがただのゲスト出演というのにとどまらないで、あれだけ多くの人が出てくると、ハリウッドを歩けば実際にあの位の頻度で、俳優たちに会えるのじゃないかと期待してしまう。

 

 そんな中で、ウーピー・ゴールドバーグが本人としてではなく、刑事役で出てきたのには意外性がある。彼女こそ、よろこんで、本人として、ギャグの一つでもかましてくれそうでしょ、ところが、逆にとぼけた刑事役を演じてくれたのも、又一興でした。飾ってあるオスカー像を手にして一言いえるのは実際にもらったことのある人でないと、きわど過ぎちゃって、可愛そうかもしれない。

 

 そんな楽屋落ちの顔見せの映画かな、と思ったら大違い。殺人事件が起こって、ミラーが追われるようになる。実際彼が殺したのだから、仕方ないのだけれど、その対応はまるで映画そのもの。ただ映画と、特に普通のアメリカ映画と違うところは、犯人が挙がらないところだ。悪いことをすれば罰があたり、逃げおうせるものではない、というモラルがあり、アメリカ映画がしっかりと描いてきたものを、あえて避けている。アメリカ映画がアメリカそのものを担ってでもいるかのような錯覚に陥っていることを揶揄している。こんな映画を作れる監督はそういないと思う。映画人たちに信用があって、信頼されていて、プロデューサー的な力も持っていて、となると誰だろう、想像もつかない。アルトマンと聞いて、彼はそういう人だったのか、と改めて感心した。

 

 こういう世界は外から見ていても面白そうに見えるし、特にハリウッドのメジャー会社のプロデューサーだったら、まさにこの映画のような毎日を送っているのだろうし、楽しいだろうなと思うが、生き馬の目を抜く世界でもあるから、明日の予測も付かない不安もあるだろう。今日、トップにいるからといって、明日も同じ地位にいられるという保障はないのだ。だから、殺される前に殺す、なんてこともままあるわけで、いつ首が飛んでも不思議じゃない世界なのだ。とはいえ、実際に殺しを決行するのは映画の中だけなんだし、映画の中で、遊んでいる分には実害はない。でも、ハリウッドで一旗上げようとしている若い作家たちが苦労して書き上げたシナリオを一刀の下に切ってしまった「つけ」はなくならないことは理解していたのか。断られた何十、何百もの恨みがあの街を日ごと夜ごと徘徊して、命を狙っていることに気づいていたのだろうか。

 

 映画人の持つ非情さを認めつつ、救われないものへの共感も前面に出し、それでもなお、これだけの映画俳優の協力を得られたということは出演者は皆な、同感したということだろう。こんな映画が実際にハリウッドで作られ、素晴らしい映画になっていることに、改めてアメリカ映画の力を見た。

 

 どんな題材でも上手く料理して、娯楽作にしてしまう手際の良さがアメリカ映画のいい意味での特徴であるとすれば、この映画はまさにその伝統的なアメリカ映画の良さを武器にしながら、しかもアメリカ映画の毒の部分を食べられるように料理してくれていて、大笑いして、拍手しながら楽しんだ。これこそアメリカ映画でなくてどこの映画か。小気味よい大傑作の誕生だ。

 

監督 ロバート・アルトマン

出演 ティム・ロビンス グレタ・スカッキ フレッド・ウォード ウーピー・ゴールドバーグ ピーター・ギャラガー ブライオン・ジェームズ シャロウ・ストックウェル ディーン・ポラック シドニー・ポラック ヴィンセント・ドノフリオ

1992年