東日本大震災の記憶 | ネイティブ東北弁、shaneneのライフだば。

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東北弁のバイリンガル、北カリフォルニア生活日記。

当時
ポルトガル領の
アゾレス諸島
テルセイラ島に
駐在していますた

( 写真はすべて
お借りしています )



( マリア像から見下ろした

プライア )


2011年
2月22日
八戸の妹から
連絡が来て




( いつもこの坂歩いてますた )



大好きな仙台の叔父が
交通事故で亡くなったと。。
ダーリンが
" すぐに日本へ
帰るように "
と言ってくれますた




( 隣街アングラ

ユネスコ世界遺産に

登録されてます)


ところが
飛行機も数日後しかなく

( 外国経由でその空港での
待ち合わせが1日とか。。)

八戸の母も

" 火葬にもお葬式にも
間に合わないし
今無理しなくても
あとでもお墓参りは
出来るから。。 "



( ラジェスの滑走路は

非常時にスペースシャトルの

非常用着陸地に

なってます )



何故か
帰りたいのに
帰る事に
気持ちが重く。。

見合わせますた
( 妹がその間の事は
メールで知らせて
くれてますた )

そして
3月11日の
まだ暗い早朝
当時の次男坊の
沖縄の彼女から
連絡があり

" 東北が
大変な事になってるから
すぐニュースを観て "
と。。

一階に降りて
ラップトップで観ると
いつも使ってた
仙台空港の様子が
写り出され。。

黒いものが
周りを
飲み込んでいく様子。。
はじめ
何が起きているのか
訳がわかりませんでした
何度も繰り返し
映し出される各地の様子
やっと津波だと
わかりますたガーン


叔父が亡くなった時
気持ちが重く帰りたいのに
帰りたくない理由が

もし
帰っていたら
叔父の家は
仙台市内でしたが
お墓は亘理にあったし
大変な事になっていますた

きっと
ワタスを
可愛がってくれていた叔父が
" 今は来るな "
と教えてくれたんだと
思いますた

あの時は
八戸の家族にも
なかなか連絡がとれず
東北の被害が
大きすぎて
気持ちが沈んでしまい
しばらく
ブログも
書けなくなりますたっけショボーン







あの日から
3月11日は
ワタスの
誕生日なのに




( 枕の下に置いてあった

今年のダーリンからワタスへの

誕生日プレゼント )



大声で
祝えなくなりますた




( ダーリンからのプレゼントは

adidasのピンク色の

ジャージですたルンルン )


なので
ワタスの歳は
あの時の
19歳のままで
止まっていまする

ぶちゅー