ユダの王ゼデキヤの第九年十月に、バビロンの王ネブカドレツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、これを包囲した。ゼデキヤの第十一年四月九日になって、都の一角が破られた。

【新共同訳聖書 エレミヤ書39章1~2節】

 

 カルデヤ人は、王宮と民家に火を放って焼き払い、エルサレムの城壁を取り壊した。民のうち都に残っていたほかの者、投降した者、その他の生き残った民は、バビロンの親衛隊の長ネブザルアダンに捕囚とされ、連れ去られた。その日、無産の貧しい民の一部は、親衛隊の長ネブザルアダンによってユダの土地に残され、ぶどう畑と耕地を与えられた。

 バビロンの王ネブカドレツァルはエレミヤに関して、親衛隊の長ネブザルアダンに命令を下した。「彼を連れ出し、よく世話をするように。いかやる害も加えてはならない。彼が求めることは、何でもかなえてやるように。」

 そこで、親衛隊の長ネブザルアダンは侍従長ネブシャズバン、指揮官ネレガル・サル・エツェルはじめ、バビロンの王の長官たちを遣わし、監視の庭からエレミヤを連れ出し、シャファンの孫で、アヒカムの子であるゲダルヤに預け、家に送り届けさせた。こうして、エレミヤは民の間にとどまった。

【新共同訳聖書 エレミヤ書39章8節~14節】

 

なにゆえ、主は憤り

  おとめシオンを卑しめられるのか。

【新共同訳聖書 哀歌2章1節】

 

わたしの目は涙にかすみ、胸は裂ける。

わたしの民の娘が打ち砕かれたので

  わたしのはらわたは溶けて地に流れる。

幼子も乳飲み子も町の広場で衰えて行く。

 

幼子は母に言う

  パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。

都の広場で傷つき、衰えて

母のふところに抱かれ、息絶えて行く。

 

おとめエルサレムよ

  あなたを何にたとえ、何の証しとしよう。

おとめシオンよ

  あなたを何になぞらえて慰めよう。

海のように深い痛手を負ったあなたを

  誰が癒せよう

【新共同訳聖書 哀歌2章11節~13節】

 

おとめシオンの城壁よ

  主に向かって心から叫べ

昼も夜も、川のように涙を流せ。

休むことなくその瞳から涙を流せ。

 

立て、宵の初めに。

  夜を徹して嘆きの声をあげるために。

主の御前に出て

  水のようにあなたの心を注ぎ出せ。

両手を上げて命乞いをせよ

  あなたの幼子らのために。

彼らはどの街角でも上に衰えてゆく。

【新共同訳聖書 哀歌2章18節~19節】

 

  共に学んでまいりましたエレミヤ書もいよいよ終わりに近づいてまいりました。

─選択と結果は複雑に入り組みながら歴史を紡ぐ─

これはあるジャーナリストの言葉です。

エレミヤはゼデキヤ王との最後の会見で、神を信じ、神の言葉に従うことを懸命に訴えました。エルサレムの運命、ユダ王国の運命、それは国民の運命そのものであり、偏にゼデキヤの信仰の決断に掛かっていたのです。しかし、ゼデキヤは人を怖れるあまり、その決断ができませんでした。そして、ついにユダの王ゼデキヤの第九年十月にバビロンの王ネブカドレツァルは全軍を率いて、エルサレムに到着し、これを包囲したのです。実はエレミヤ書の最終章であります52章には、このエルサレムの破局の経緯がより詳しく記されています。

 

エルサレムを包囲したバビロン軍による兵糧攻めは一年半にも及び、ゼデキヤ王の第十一年四月九日に都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、とうとう都の一角が破られ、戦士たちは民を見捨てて皆、逃げ出したのでした。

バビロン軍による兵糧攻めで厳しい飢えと恐怖に混乱するエルサレムの惨状は、今日お読みしました哀歌に謳われています。

哀歌第2章は、第4章と共に紀元前587年にエルサレムが陥落した直後に、若しくは近い年代にこのエルサレムの破局を生き延びた者によって謳われたと言われています。特に第2章は哀歌の中でも最も古い歌と言われています。

 

神への悲痛な嘆きで始まります1節から8節には”主は……、主は……”とイスラエルの敵となられた主なる神が、エルサレムに対して激しく憤り、火のような怒りを露わにしている様が強調されているのです。その破壊の凄まじさは想像を絶し、兵糧攻めによる飢餓の惨状は、もはや言葉を失うほど耐え難く、詩人は胸の張り裂けるような苦悩にただただ悶え呻くばかりです。

 

戦争で常に真っ先に犠牲となるのは幼い命です。飢えに苦しみ、衰弱し、息絶えてゆく幼子たちのあまりにも惨い有様は、ガザの悲惨な光景と重なってまいります。

監視の座に拘束されていたエレミヤは、この凄惨な状況の一部始終を目撃したのです。恐怖に怖じ惑い、錯乱し、苦しみ悶えて絶命してゆく人々の呻きをエレミヤは聞いたのです。

どんな言葉を以てしても言い表すことのできない詩人の悲しみは、そのままエレミヤの悲しみであり、どんな慰めも空しく消え去るばかりであります。

 

遂に都の一角が破られ、ゼデキヤの一団は夜の闇に紛れて脱出し、逃走いたします。しかし、エリコの荒れ地でバビロン軍に追いつかれ、捕えられ、ネブカドレツァルの下に連れて行かれたのです。ネブカドレツァルはゼデキヤの目の前で、王子たちを処刑し、将軍も貴族も皆処刑したのです。この残酷の裁きを目の当たりにしながら果たして、ゼデキヤの脳裏に浮かんだのは何だったのでしょうか。

 

エレミヤとの最後の会見で、バビロン王に降伏するなら命は助かり、都は火で焼かれずに済む。あなたは家族と共に生き残ると懸命に訴えていたエレミヤの姿だったでしょうか。

或いは、命の道か、死の道か、狭い門か、広い門か、その分かれ道にあって、人を怖れるあまり神の言葉に従うことができなかった自らへのどうしようもない悔いだったでしょうか。

或いは、民を見捨てたことへの王としての自責の念だったでしょうか。

ただ思うことはゼデキヤの弱さに私たちは自分たちの弱さを見るのではないでしょうか。

ゼデキヤは両目を潰され、青銅の足かせを嵌められてバビロンへ連行され、52章にはその地の牢獄で惨めな最後を遂げたとあります。

 

五月十日、バビロンの王の側近、親衛隊の長であるネブザルアダンは主の神殿、王宮、エルサレムの家屋全てを焼き払い、神殿にあります金製、銀製の祭儀用の様々な道具や柱などの大量の青銅を持ち去り、更にエルサレムの周囲の城壁をすべて取り壊したのです。こうしてエルサレムは完全に破壊されたのです。

民のうち都に残っていた他の者、投降した者、その他の生き残った民を捕囚としてバビロンへ連れ去りました。その総数は四千六百人であったと記されています。ただ、無産の貧しい民の一部を残し、ぶどう畑と耕地を与えたのでした。

ユダ王国は滅亡し、歴史から消えたのです。

 

エレミヤはネブカドレツァルの命令により釈放されました。エレミヤを預かったゲダルヤは、彼の祖父も父も、特に祖父はヨシヤ王に仕え、代々エレミヤの理解者であり、協力者でもありました。彼はネブカドレツァルによってユダの町々の監督を委ねられていました。

ところで、エレミヤの釈放につきましては、40章に於いてその詳しい実情が記されています。エレミヤは王宮の監視の庭に拘束されていましたが、エルサレムが破壊されて行く非常に混乱した状況のさ中、他の人々と共に捕らえられて、捕囚としてバビロンへ移送されて行く一団の中におりました。親衛隊の長であるネブザルアダンはこのネブカドレツァル王の命令を受けてエレミヤを捜し、この一団の中に発見して、ラマで釈放したのです。

注目すべきことは、まず、ネブカドレツァルの命令にはエレミヤへの手厚いと言えるほどの配慮が伺えることです。更に、ネブザルアダンに於いては確かに王の命令があるわけでありますけれども、目の前にいる長年の苦悩が深い皺となって刻み込まれている老齢の預言者エレミヤに、敬意をもってとても丁重に対応しているということです。しかも、エレミヤの意志をどこまでも尊重しております。40章の2節でネブザルアダンは「主なるあなたの神は、この場所にこの災いをくだすと告げておられたが、そのとおりに災いをくだし、実行された。それはあなたたちが主に対して罪を犯し、その声に聞き従わなかったからである。だから、このことがあなたたちに起こったのだ。」とエレミヤの預言そのものをこのネブザルアダン、つまり異教の国のバビロンの親衛隊の長が語っているのです。おそらく、この背景にはゼデキヤ王の前にたった三か月だけ王位にあったヨヤキムとその祭司、高官たちが最初に捕囚民としてカルデヤの地に連行されて行ったわけですが、エレミヤはその彼らに宛てて手紙を送っていたのです。その内容というのは、カルデヤの地、すなわちバビロンの地に根を下ろし、そこで生活を築き、周囲の町々のカルデヤ人とも平和に暮らすよう勧めていたわけです。バビロンの王も親衛隊の長もこのことを知っていたのだと思います。実際ネブカドレツァルはイスラエルの宗教を認め、生活においても彼らの自治に任せるという大変寛容な政策を取っていたのです。

 

エレミヤはゲダルヤの元に身を寄せ、国に残った人々と共に留まる道を選びました。つまり、戦禍で荒れ果ててしまった地に僅かのぶどう畑と耕地を与えられて残された貧しい人々とその過酷な生活を共に生きる道を選んだのです。

それはまた、エレミヤの助言を必要とするであろうゲダルヤにとっても望ましいことであったに違いありません。

 

40章の一節にこのようにあります。

 主から言葉がエレミヤに臨んだ。それは……ラマで釈放することにした後のことである。

 

エレミヤの選択には主なる神の導きがあったということです。エレミヤは貧しい人々と過酷な生活に耐えながら、神の新たな、そして最後になるであろう使命を待つことになるのです。たとえそれが更なる苦難であっても、彼は全身全霊でその使命に従うのです。エレミヤにとって希望は、死を超えてただ神にのみにあるということを彼はしっかりとそこに立っているからにほかなりません。