ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕えるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」

すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いった、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

 

 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、いえすは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書7章32節~39節】

 

 ヨハネによる福音書7章は仮庵祭というイスラエルの祭りを背景に描かれています。イエス様の兄弟、一般の群衆、ファリサイ派の人々、律法学者たちが登場します。

聖書の福音書というものは、イエス様を中心とする出会いの物語と言えるかもしれません。そこには様々な人々の人生が描き出されています。

今を生きる私たちも一人一人がイエス様とどのような関わりをもって人生を歩んでいるのかと同じようなものかもしれません。

仮庵の祭りとは、ユダヤ教の三大祭りのひとつ。期間は8日間。人々はエルサレムに集い、かつてエジプトで奴隷であったイスラエルの人々が、神に召されたモーセによってそこから救い出されたことを思い起こすという大切な祭でした。元々は秋の収穫を感謝するということから始まったようです。

この祭りのクライマックスというのが、エルサレムの祭司がシロアムという池の水を汲み、それを神殿の祭壇で神様に捧げるという儀式です。

この水を捧げるという儀式も、出エジプトの際に水が無いという人々の不満に対し、モーセが神に祈り、岩から水を溢れさせたという出来事に因んでいます。

 

このような仮庵の祭りの中で、イエス様に対する良い評判がファリサイ派の人々や律法学者の耳に入ってきたのです。イエス様の評判が良くなると、イエス様を亡き者にしようとしている彼らにとっては不利になります。そこでイエス様を捕えるため下役を遣わしたと今日の聖書の箇所は記しています。

ファリサイ派の人々や律法学者といえば、ユダヤ教の指導者であり、知識も教養もあり、特に律法については専門家でありました。ですから、律法を否定していると思っているイエス様は邪魔でありました。

イエス様は決して律法を否定していたわけではありません。形式的、外面的に律法を守るよりもその精神を生かすということを考えておられたのです。そういう面で彼らとは違う考えを持っておられました。

イエス様は律法は人のためにあるのであって、人が律法のためにあるのではないと考えておられたのです。しかし、彼らはどんなことがあっても律法を守る、律法を絶対視していました。彼らにとってイエス様は目の上のたんこぶのような存在でした。

彼らは密かにイエス様を捕え、殺そうとしていたのです。

 

恐らく、イエス様も彼らのそのような考えを知っておられたと思います。

イエス様は「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。……あなたたちはわたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」と告げられます。ファリサイ派の人々や律法学者には理解できない言葉でした。

 

仮庵祭の最終日、イエス様は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られます。

”渇いている人”とは、自分の生き方に悩んでいる人、あるいはもっと充実した日々を送りたいと思っている人かもしれません。

詩編の42編に、

 涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。

 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

と、記されています。つまり魂の渇きを覚えている人を渇いている人と見なすことができるでしょう。そういう人がイエス様のところへ来て、魂の渇きを潤すイエス様の生きた水を飲むことができるのです。

わたしたち一人一人が主から水を受ける。主から永遠の命の水を受ける。一人一人が主と出会うことで本当の命の水を受けることができるのです。イエス様が与えて下さる水は魂の渇きを潤して下さいます。

イエス様との出逢いは、それぞれ違ったものかもしれませんが、主と出会う、共に歩む。そこから渇いているものが満たされる。渇いた魂が潤されるのです。

 

”その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる”

 

この言葉を聞きますと、4章のサマリヤの女の記事を思い起こします。人目を忍んで水を汲みに来た女がイエス様に”どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。”と問います。そこでイエス様は”この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る”と言われます。

 

イエス様と共に生きることによって、その人の中から水が川となって流れ出るようになる。わたし達一人一人の歩みの中に生きた水が泉となり、それは主と共に生きるということなのです。

イエス様と出逢い、共に生きることによって、聖霊に満たされて生きた水が川となって流れるのです。