「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、」少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要がないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書16章25節~33節】

 

 弟子たちは、イエス様がやがて地上を去って行かれる時を前にして、その言動から不安な出来事が起ころうとしていることを察知していたのでしょう。イエス様はそのような弟子たちの思いを汲み、別れの説教をされました。それは13章後半から始まっています。この16章はその最後部分にあたります。

 

ここには最後にイエス様が弟子たちに伝えたかったこと、遺言のような言葉が語られています。イエス様が十字架で処刑された後、弟子たちがどうなるのか。そのことを想定してイエス様は語られます。イエス様がいなくなったあとも決して弟子たちとの絆が途切れるわけでもなく、決して見捨てないということを強調し、励まされます。ただ、弟子たちがそのことを本当に理解していたかどうかはわかりません。イエス様の十字架の死によって、弟子たちは一旦路頭に迷うことになるわけですが、イエス様はそのことをも想定して、前の箇所で”悲しみは喜びに変わる”と語られています。そして、”あなたがたと共にもう一度会う”とも言われています。その喜びというものは一度限りというものではなく、絶えずイエス様に於いて喜びは創造されるとも語られています。

 

その喜びの根源は、もちろんイエス様であるわけですが、そのことを27節以下に記されています。

 

 ”父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。”

 

つまり、わたしたちは神に愛されている、神御自身があなたがたを愛しておられるのだと繰り返し語られるのです。その愛の源はイエス様が神様のもとから来られ、また世を去って、神さまのもとに行かれる。そのことが愛の証しであるのだと言われます。神と等しいイエス様がわたしたち人間と同じ肉体を取りつつも、罪を犯さなかったがゆえに私たちの罪を背負って身代わりに裁きを引き受けて下さった、更にはその罪の贖いの死から蘇られ、聖霊によって確かな信仰を弟子たちに与え、弟子たちをはじめとしたすべての罪人が神の子として生きる、そのような道をイエス様が備えてくださっということなのです。

そのような形で神様が人間を愛され、今もイエス・キリストに於いて愛してくださっている。更には27節の後半、”あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである”と記されてます。

わたしたちが友との関係に於いて、互いに愛され、理解されているという思いが親しい関係を作り上げ、語り合う喜びが生まれてくるのではないでしょうか。

イエス様が神のもとから出て来たことを弟子たちが信じ、イエス様のことを理解し、イエス様も弟子たちのことを理解した。そういう関係が作られたということではないでしょうか。

 

そして、イエス様が神様と共にいる神様であることを弟子たちが理解し、信じたのです。このように弟子たちの信仰を”わたしを愛する”と語られます。

 

28節以下には、”わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く”と告げられています。”世を去って、父のもとに行く”とは派遣された神様のもとへ行くということです。このことは弟子たちには本当はわかっていないのではないかと思われます。

32節には”あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ”と記されています。

最後までイエスさまに従わない弟子たちのことを語られます。弟子たちの”わたしを愛してくれる”という信仰を喜びつつも、”わたしをひとりにする時が来る”ことを予告しているのです。自分たちに迫害の手が伸びると自分の命を守るために”自分の家”に帰ると告げられます。

弟子として生きるということは、網を捨ててイエス様に従うということですから自分のために生きるのではなく、他者のために生きるということなのです。他者を愛し、自分を捨てて生きることです。

一方で、自分の家に帰るということは、網を捨てた者が網を取って自分のために働く、自己を優先した生き方に生きるということです。弟子を辞めるということです。

 

イエス様の出会う前に帰る、それが自分の家に帰るということなのです。

 

33節以下、

”これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。”

 

苦難という言葉が使われていますが、女性が子供を産むときの苦しみ、所謂産みの苦しみということです。初代教会の人々の苦難、信仰というものがここの背景にあると思われます。ローマの力、皇帝の強い権力の中で、苦難を背負ってキリスト者として生きるという背景があるのです。それが”あなたがたは世で苦難がある”という言葉です。つまり、信仰に生きる信仰者の苦しみというものが記されています。それはイエス・キリストの苦しみであります。そのような苦しみを担いながらも弟子たちが信仰に於いて、イエス様と繋がり、イエス様と共に生きるならばそこに平和があると言われるのです。

わたしたちの日常生活がどのような状況になったとしても、あなたの上に神からの平安があるのだと弟子たちを力づけられます。どのような時にもイエス様は常に私たちを共におられ、守り、支えてくださるといわれるのです。それが平和です。

 

また、ここで言われている”世”とはイエス様を十字架に付けた”力”を示しています。つまり、この世の権力に対して弟子たちが遭遇するであろう苦難をイエス様は思っておられます。そして、そういう弟子たちに対して”勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている”と告げられるのです。

わたしたち信仰に生きる者は、ひとりひとり決して強いものではありません。しかし、そのような弱い存在であるわたしたちに働きかけて下さるイエス様、それ故にわたしたちは信仰に於いて強くされるのではないでしょうか。

イエス様はわたしたちひとりひとりに”勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている”と語り掛けてくださいます。そして、信仰によって生きるということを励ましてくださっているのです。