過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリヤが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書12章1節~8節】

 

 本日の聖書箇所は先程讃美いたしました讃美歌21 567番の歌詞に内容が凝縮されているような気がいたします。

今日の御言葉ヨハネによる福音書12章1節から8節までですが、イエス様はベタニヤに行かれたというところから始まります。前節11章では、ラザロを生き返らせるという奇跡が描かれています。ラザロはマリアとマルタの弟になります。このラザロを生き返らせるという出来事を見ていた人々が、イエス様の奇跡をあちこちに伝え、波紋が広がって行きました。様々な人がイエス様の行為を聞いて影響を受けて行くのです。11章の45節には『マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた』と記されています。46節では『しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。』と記されていますのですべての人々がイエス様を信じたというわけではありません。ラザロを復活させたことによって、信じる者もいたわけですが、いつもイエス様の行いに対して否定的な人もいたのです。

53節を見ますと『この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。』とありますので、イエス様の行為によって”この男をなんとかしないといけない。……殺そう”とイエス様を殺す相談をし始めるのです。そして、祭司長、パリサイ派の人々はイエス様を”逮捕せよ”と命令を下すのです。

イエス様の周辺を取り巻く状況は非常に緊迫したものになり、イエス様を必死になって探そうとし始めます。

そういった中で、ベタニヤに於いて香油が注がれるのです。ベタニヤには、マリア、マルタ、ラザロの兄弟がいた家がありました。イエス様はそこを拠点として、いろいろなところへ出かけて行かれていたようです。おそらく、そこはイエス様にとって心和む場所だったのでしょう。

 

2節以下に『イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。』と記されています。おそらく、ラザロを生き返らせたという出来事に対して、マリアたちが感謝の気持ちを込めて、食事の席を設けたのではないかと思われます。

そのような食事の席で『(3節)そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。』と記されています。

この1リトラの香油というのは後で出てきますが金額にしますと三百デナリオンの価値があるようです。非常に高価なもののようです。

 

マリアはイエス様に対して、このような行為を示すわけですが、彼女にとっては精一杯の神様に対する献身の思いが込められていたわけです。この香油の物語は、他のマタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書にも記されています。ルカによる福音書にはマルタとマリアの性格が対照的に記されています。マルタはこまごまとしたことに気遣いながら給仕をしています。おそらく日常的にもそういったことをしていたのでしょう。

一方のマリアは坐って、一番前でイエス様の話を聞いていました。マルタとマリアの性格は非常に対照的であったようです。マルタはマリアにも手伝って欲しくて、そのことをイエス様に訴えます。しかし、イエス様は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。(ルカによる福音書10章41節)」とマルタを諫めます。マリアは信仰を持って、イエス様の語る言葉を受け取っていたのです。二人の内のどちらが良いということではなく、そういうマリアの姿勢があるのです。信仰でしか見ることのできない世界というものをマリアは知っていたのです。ヨハネによる福音書には”見ないで信じる者は幸いである”という言葉が繰り返し記されています。

この席でマリアは高価なナルドの香油をイエス様の足に塗り、自分の髪の毛でぬぐうという行為を通して、イエス様への思い、献身の思いを現わしたのです。

このような形でマリアは自分で出来る最高のものを神様に捧げたということが言えるのです。ここには信仰とは何であるかということが示されているのではないでしょうか。

 

マリアの行為に対して5節以下には『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』とユダの言葉が記されています。

実はこの箇所について宗教改革者のカルヴァンという人がこのように注解しています。

  このつぶやきはユダ一人から発せられたものだが、他の人たちも心を動かされ、  

  彼の言ったことに同調しているのである。

 

つまり、弟子の一人と記されていますが、他の弟子たちもユダの言葉に同調したということであります。ここでユダが言っている三百デナリオンという金額は、当時のローマの兵隊の一年分の給料に相当するということです。一人の人間が一年間生活できる金額というのです。

マリアのこの香油の使い方はユダや他の弟子たちから見れば、”無駄”に思えたに違いありません。ユダの言葉は非常に現実的な言葉ということになります。社会的な弱者と言われている人々に対して、私たちがなさなければならないことでもあるということです。三百デナリオンあれば多くの隣人を助けられることでしょう。しかし、聖書は6節以下を見ますと、『彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。』と記されています。ユダは貧しい人々に施すと言っていますが、彼の言葉は自分の悪意を隠すためにもっともらしい口実を作っていったわけなのです。おそらくユダ自身は貧しい人々に対して、そんなに関心も無かったのだと思われます。彼は決して自分のためとは言いません。

 

ユダにとっては、イエス様の存在というものは自分の幸福を作り出す手段であって、イエス様の貧しさや僕の姿は彼にとっては愚かなものでしかなかったのでしょう。ユダはイエス様に仕えず、反対にキリストを自分に仕えさせようとしていたのかもしれません。イエス様の十字架の道は全くユダには通じなかったようです。ご存知のようにユダは銀貨30枚でイエス様を引き渡してしまうのです。

 

一方のマリアの行為はユダが批判しましたように、無駄遣い、浪費であるかもしれません。また、正しくないかもしれません。しかし、それはマリアのイエス様に対する一途な愛の行いとみることができるのではないでしょうか。しかも、それは自分に向けられたものではなく、主への愛、神への愛であります。それゆえにイエス様は『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから。』と言われたのです。マリアは信仰の目でイエス様の死を意識していたがゆえに、最大限の愛の行為をこのような形で示したのだと思います。そのことをイエス様は感じていたからこそ、こう言われたのでしょう。イエス様は、マリアの香油注ぎが葬りの準備であり、マリアの最大の愛の行為を受けて、十字架への道を歩むためにエルサレムに入城したのです。