ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気付いて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

 

 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書6章60節~71節】

 

 今日の聖書の箇所は、6章の後半部分です。何回か6章を学びましたが、6章は最初に五つのパンと二匹の魚の話が記されています。わずかなもので多くの人々の空腹を満たすという記事です。しかも、小さな子供が自分の食べ物をイエス様に差し出したところから始まり、イエス様はそれを祝福して用いることで多くの人たちの空腹が満たされるという奇跡の物語でありました。

 

イエス様はその後、人々を避けて湖の向こう岸に行かれました。それでも群衆はイエス様の後を追ってカファルナウムというところに辿り着いたわけです。着いて来た群衆は、イエス様はこれからも奇跡を起こして食べ物を下さるだろうという期待を持って着いて来たのです。しかし、イエス様は群衆に「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。(ヨハネによる福音書6章26節)」と、着いて来た群衆の意図を見抜いて言われました。そして「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。(同27節)」と言われました。このイエス様の言葉は終始一貫しています。

その後、ユダヤ人が登場してきて、イエス様と彼らのやり取りが記されています。彼らはイエス様が「わたしは天から降って来たパンである(同41節)」と言われたことに対して、「どうしてそんなことを言うのだろう」と。イエス様の父や母はユダヤ人ではないだろうか、そんなナザレのイエスが神と関係あるはずがないではないかと、イエス様の言動に対して不信を抱くわけですが、イエス様はイザヤの言葉を引用して、神御自身が救いの日に人々を信仰に導いてくださるのだと伝えるわけです。

そして、御自分のことを命のパンであると繰り返して語られるのです。

さらに、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである(同51節)」と真のパンについて語られるのです。この言葉を受けて、ユダヤ人たちの間でまた激しい議論を展開されていくのです。

 

このイエス様の「世を生かすためのわたしの肉のことである。」という言葉は、イエス様の十字架の死を示しています。そのことでイエス様が真の命のパンになることを示しています。しかし、残念ながら人々は理解することができませんでした。加えて、このことで弟子たちさえもつまずいてしまうのです。それでもイエス様は命のパンについて語り続けるのです。

 

63節を見ますと、「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」と警告をいたします。

66節以下で、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。と、記されています。つまり、パンの奇跡を起こされた目的は、もちろん、飢えた人々にパンを与えるということもありますが、永遠の命のパンですべての人々が生きてほしいという願いもあったわけです。イエス様の永遠の命のパン。パンの奇跡によっても信じることはできませんでした。むしろ、十字架の死が具体的になればなるほど、残念ながら弟子たちは退いてしまうのです。

 

そんな中でイエス様が十二人に問いかけます。

「あなたがたも離れて行きたいか」

この問いかけはおそらく、弟子たちの心の内を見抜いているような言葉です。これに対しペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。(同68・69節)」と彼らしい答えを返しします。

ペトロはイエス様の前で信仰告白とも言える言葉を語ります。が、彼のその後の動向を見ますと、イエス様が捕えられ、大祭司の中庭に連れて行かれた時、イエス様を知らないと口にします。

ヨハネによる福音書18章には次のように記されています。

 

  シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一

  人ではないのか。」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司

  の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園

  であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」

 

ペトロはここで再び「私は知らない」と否定するのです。あの「主よ、わたしたちはどこへいきましょうか。……」と言ったペトロが土壇場で「イエスを知らない」というのです。イエスを否認するところはマタイ、マルコ、ルカ、他の三つの福音書にも記されています。マタイによる福音書ではさらに克明に”三度知らないと言った”と記されています。さらにはイエス様が捕えられた時にイエス様を見捨てて逃げ去ったペトロでもあります。もちろん、その状況になった時に、ペトロだけではなく弟子たち全員、イエス様を見捨てて逃げたわけであります。

 

ここのところにはユダもいるわけですが、70節以下で「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」とユダのことを指して言われています。つまりイエス様はこの時、ユダが裏切る、或いはペトロを初め弟子たちにも見捨てられることを知っておられた訳であります。

 

ペトロはイエス様を見捨てて逃げた後、生まれ故郷に帰って漁をしていました。そんな時、復活のイエス様がペトロに出会われました。ペトロは復活のイエス様に出会って、イエス様に赦され、愛されていることを知り、もう一度弟子として生きる者と変えられました。彼はイエス様の愛と赦しによって、イエス・キリストを宣べ伝える者とされたのです。

彼は、キリストの教会を作り、最後には殉教いたします。イエス様を一度は裏切りましたが、主を信じ、主の教会を作り、召されていったのです。それは彼をどこまでも赦し、受け入れ、立たせて下さった深い愛、それがペトロをこのような形で用いられたのです。

イエス様がパンの奇跡を起こし、繰り返し、ユダヤ人や弟子たちに求めておられたのは、永遠の命の言葉を持っておられるイエス様のところへ行く、イエス様は何かをわたしたちに与える方、わたしたちの要求を満たして下さる方として関係を持つのではなく、イエス様自身が神から与えられた賜物であり、わたしたち自身がイエス様の元へ赴くということなのです。

ただ、わたしたちの信仰の歩みに置き換えてみますと、イエス様に従うということは本当に大切で、重要なことでありますが、しかし、同時に主を裏切るということをもわたしたちの中にあるということも否定できないのではないでしょうか。今朝の聖書の箇所はそのことを示しているのでと思います。そのことをわたしたしはしっかりと心に留めておかなければならないのです。しかし、わたしたちがそういう存在にも拘わらず、永遠の命に生きる、そのことが許されているということであります。永遠のの命の言葉、わたしたちを根底から支えるイエス・キリスト御自身であること、そして、イエス様ご自身の言葉と行為を通してわたしたちは支えられ、歩まされ、そして勇気付けられいるということを覚えたいと思います。