さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。

「『人はパンだけで生きるものではない。

 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』

と書いてある。」

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根に端に立たせて、言った。

「神の子なら、飛び降りたらどうだ。

 『神があなたのために天使たちに命じると、

 あなたの足が石に打ち当たることのないように、

 天使たちは手であなたを支える』

と書いてある。」

イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。

「退け、サタン。

 『あなたの神である主を拝み、

 ただ主に仕えよ』

と書いてある。」

そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 

 イエスは、ヨハネが捕えられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

 「ゼブルンの地とナフタリの地、

 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、

  異邦人のガリラヤ、

 暗闇に住む民は大きな光を見、

 死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。」

 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝えはじめられた。

【新共同訳聖書 マタイによる福音書 4章1節~16節】

 

 先週の14日より、教会の暦ではレントに入りました。四旬節、受難節と呼ばれています。新しい教会の暦ではイースターまでの6週間を復活前節と呼ばれています。特にイエス様の苦難と十字架を覚えつつ礼拝を守る時と定められています。今年のイースターは3月31日です。日曜日を除く40日間です。

この40日間というのは、今日の聖書の箇所でも示されていますようにイエス様が荒れ野で悪魔の試みに遭われた期間でもあります。旧約聖書ではイスラエルの人たちがエジプトを出て荒れ野を彷徨ったのが40年間と記されています。

私たちの罪を背負ってくださった主の苦しみ、そして十字架の死を覚え、その中で私たちは悔い改めと感謝の思いを持って、信仰が深められていくことを確かにしたいと思います。

 

今日の聖書の箇所は、皆さん、よくご存じの箇所でありますが、イエス様がガリラヤで伝道を始められる前に荒れ野で悪魔の誘惑に遭われたということは、非常に意義深いことであります。

1節に『イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。』と記されています。”荒れ野”というものはバプテスマのヨハネの記事の時にも申し上げましたように、通常の人が日常生活をする場所ではなく、非常に荒れ果てたばしょであります。そこには獣が棲んでいるとか、悪霊の住処であるとも当時は言われておりました。通常、人が好んで行く場所ではありませんでした。しかし、一方でイスラエルの人々がエジプトから脱出して40年間荒れ野を彷徨った時、そこで神様に出会い、神様がイスラエルの人々をカナンの地に導かれたということもあり、”荒れ野”は一方では悪魔の住処であり、一方では神様と出会う場所でもあったわけであります。相矛盾する二つの意味が”荒れ野”にはあるのです。

 

今朝の箇所ではイエス様が荒れ野で三つの試みに遭われたと記されています。

まず、一つ目は『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』というものです。イエス様は断食をしておられて非常に空腹になっておられました。人の弱いところを悪魔は突いてくるのです。その悪魔の言葉に対してイエス様は『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と言われて退けられました。

食べ物を得るためにイエス様の下に群衆が集まった時、イエス様はパンの奇跡を起こされました。そのことを思わされますが、私たちは食べ物がなければ生きてはいけませんし、食べ物のことで争いが起こったり、裏切りがあったり、時には戦争へと発展することもあります。しかし、イエス様はここで悪魔の誘いには乗りません。石をパンにしませんでした。イエス様はここで神の言葉に生きることの大切さを語られたのです。イエスさは飢えで苦しんでいる人がどうでもいいと思われたのではありません。

本当に神の言葉によって人間は生きるのだということをイエス様は語られたのです。人間はパンがなければ生きて行けないという弱さを突いてくる悪魔に対して、イエス様は神の言葉によって生きることを伝えたのです。

 

二つ目は、神を試みるということです。神様が全能であることを証明して見せなさいということです。あたかも当たり前のようなことを悪魔はささやくのです。神様が全知全能であることを証明しなさい。そうしたら私は認めようということです。

5節に『神の子なら飛び降りたらどうだ。神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』と書いてある』と記されています。先程も申し上げましたように、全知全能の神であるならやってみろ、試して見せてみろという悪魔のささやきであります。つまり、神様に奇跡を見せてみなさいということです。イエス様は病人を癒したりされましたが、ここでは悪魔のささやきには応じませんでした。その言葉に対してイエス様は、『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と応えられました。

試すという言葉は強調する言葉になっています。挑発するという意味があります。悪魔は神様を挑発しているのです。ここには神様への傲慢な思いが現れています。誘惑という言葉は試験をするという意味もあります。神を試験するということであります。悪魔は人間の弱さを突いてくる、そして、神様から人間の目を逸らせようと狙っているのです。

悪魔は魅力的なものをちらつかせてまいりますが、イエス様は挑発してはならない、主を試してはならないと退けられます。

 

そして三つめは、『悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、もしひれ伏してわたしを拝むならこれをみんな与えよう』と言うのです。つまり高い山は権力・権威、支配を示しています。そういう魅力的なものを見せて、ひれ伏せ、つまりサタンの奴隷になれと迫るのです。

それに対しイエス様は「『退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と言われました。

悪魔は人間の弱さを突いてきます。

”退け、サタン”という言葉はマタイの福音書の中で、イエス様がペトロに対して言われた言葉でもあります。イエス様が祭司長や律法学者に連れ去られ、殺されることを弟子たちに打ち明けた時に、イエス様にとってそれは十字架への道、使命として受け止めておりましたので、その時、ペトロがイエス様を脇へ連れ出して、「イエス様、そのようなことは仰ってはなりません」と諫めた時に、イエス様は「サタンよ、退け」と仰られました。イエス様は十字架への道を阿生み出す決意を弟子たちに語った時に、ペトロとしてはイエス様のことを思って発した言葉でしたが、イエス様にして見れば、十字架への道を閉ざしてしまうということであったわけです。

 

つまり、ひれ伏してわたしを拝めというのは、サタンの奴隷になるということであります。ですから、そのような言葉はイエス様にとっては神への道を遮ることであったわけです。ですから、「退け、サタン」。そして、「主を拝み、主に仕えよ」と言われたのです。

 

このように見て行きますと、最初の試みではイエス様は、「神の言葉によって生きる」と言われ、次に「神を試みない」、そして、「神のみに仕える」と言われました。三つのことは私たちの信仰生活にとって、本当に重要なこと、基本的なことをこの悪魔の試みの中でイエス様は言われたのだと思います。

イエス様が悪魔から誘惑を受けられたのは、荒れ野であります。しかも、霊に導かれて荒れ野に行かれたのです。エルサレムの聖所には祭司長たちや律法学者たちが支配していました。そういう中でイエス様が新しい活動をするには荒れ野以外にはありませんでした。バプテスマのヨハネや多くの新しい活動というものは荒れ野から始まりました。

この後、イエス様はガリラヤで伝道を始められるわけですが、その前に本当に大切なことを荒れ野で語られたのです。

 

住む人のいない所、或いは見捨てられた町、住民の少ない地域、そして人里離れた淋しい所、それが荒れ野であります。モーセが神様の呼び掛けからエジプトから脱出したときにも、イスラエルの人々を救い出すように言われて歩んだのも荒れ野でありました。そして、40年間荒れ野で生活しました。しかし、そういう中にあっても神様はイスラエルにマナを与え、養ってくださいました。ですから、荒れ野は天使たちが使える場であり、神様と出会う場所であります。

 

このように考えますと、私たちの住む世界も正に荒れ野ではないでしょうか。イエス様が荒れ野で試みに遭われたというのは、あえて神様がイエス様を孤独の中に遣わされたということであります。そして、それはあたかも見捨てられた状態の中にイエス様を置かれたということでもあります。誘惑を受けた時、イエス様は孤独で、空腹でした。非常に辛い状況の中にありました。その渇きというものをイエス様は良くご存じなのです。

神様はこのような形でイエス様をひとりにし、人間の弱さを担わされたのです。その弱さを負いつつ、イエス様は神の言葉によって生きる、そして、神を試みない、神にのみ仕えるということを私たちに伝えておられるのだと思います。

荒れ野にこそ、私たちの弱さを知った主がおられるのだということを、今朝の箇所から心に留めたいと思います。