三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水かめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。「イエスが、水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書2章 1節~11節】

 

 イエス様はガリラヤのカナで行われた、水をぶどう酒に変えられたという話はヨハネのによる福音書の中でも非常に美しい物語です。結婚式という事柄自体が二人の生涯の中で希望に満たされた時でもあります。

このカナの物語は二章に入って始まるわけですが、前回学びましたように1章35節以下で、エス様が弟子を選ぶという記事が記されています。その後にカナの婚礼の話が続くわけです。そして、このカナの婚礼の後に神殿で商売をしている人々に対して、イエス様が非常に強い態度で叱責する物語が記されているのです。

 

福音を宣べ伝えるために弟子を選び、カナの婚礼に出席し、祝宴の中で奇跡を示される、そしてその後にエルサレムに向かわれるわけです。

イエス様が招かれた婚礼は、とても賑やかで喜ばしいものであったようです。イスラエルの生活習慣の中でぶどう酒というものは、一般的な飲料水と同じように無くてはならないものでありました。

特に古い上質なぶどう酒というものは、旧約聖書の預言者が”万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される”というふうにイザヤ書の中で述べているように、イスラエルの人々は何か出来事があると主の山に集い、ぶどう酒を酌み交わして主に守られた喜びと恵みというものを語り合い、そこに主が伴われることを信じ、夜が更けるのも忘れて語り合ったようであります。

ですから、イスラエルの人々にとってぶどう酒というものは無くてはならないものでした。

 

その大切なぶどう酒が祝宴の真っただ中で無くなったというのです。その場に居合わせた人々は非常に慌てたに違いありません。

そこで母マリアがイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と訴えます。突然の出来事でマリアはこの事態を何とか収拾しようとしてイエス様に助けてもらおうとしたのです。しかし、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と、母マリアの切実な願いにもかかわらず、きっぱりと冷たいとも思える口調で応えています。

なぜ、イエス様はこのような冷たいと思える態度を示されたのでしょうか。マリアは母として助けを求めたのに、イエス様の思いはそうではありませんでした。マリアは何とかこの場が失礼のないように、何事もなく過ぎ去ることを願っています。しかし、一見冷たいように見えるイエス様の「婦人よ、わたしの時は来ていません」という言葉の”時”とは。

通常であれば、新しいぶどう酒を手に入れるために人々は奔走し、その場を凌ごうとするはずです。

イエス様が言われる”時”というのは、わたしたちが何か困ったことが起これば、すぐ自分の都合の良いように何とか解決しようとする、そういう”時”では、ないということです。つまりそれは、神様が”良し”とされる”時”なのです。イエス様は神様から使命を託され、神様の”時”に生きようとしているわけです。つまり、神様の意志が行われる時を待っていたのだと思います。この”時を待つ”というのは、信仰の時でもあります。そして、上より与えられる時でもあります。それ故に、イエス様は「わたしの時はまだ来ていません」と仰ったのだと思います。

くりかえしますが、この”時”というのは神様の意志が行われる”時”でもあり、ぶどう酒の奇跡が行われる”時”でもあり、最終的には十字架で死ぬ”時”を示してもいるのです。そういう意味でイエス様は「わたしの時はまだ来ていません」と仰ったのだと思います。

 

わたしたちは人生の中で深刻な事態に遭遇します。そのような時に私たちはこの閉ざされた状況を打ち破りたい、あるいは前に進みたい、そのように努力をいたします。

そのような営みは決して悪いことではありません。しかし、一方で、神の時があるということです。私たちはその神の時を待たなければならない、そういう時代にあるということをこの記事は示しているのです。よく、私たちの時というものを横の線と縦の線で示されます。横の線はわたしたちが歩んでいる生まれてから死ぬまでの線、一方の神の時というのは縦の線、上からの線であります。上からの線、信仰による線であります。そのように私たちの人生は横の線と上からの線が交差した時が与えられているのです。

 

ユダヤの習慣では、各家庭に水がめが置かれています。外出から帰った時に体を清める、また食事の前に手を洗う、そのようなことのために置かれているのです。この物語では、二ないし三メトレテスのものが六つ置かれており、イエス様が「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われています。ひとつの水がめに100リットル以上の水が入るということですので600リットルの水を入れなければなりません。それは本当に大変な労力が必要になります。しかし、召し使いたちはイエス様に言われたとおりにいっぱいに入れて、世話役の元に運んでいきました。

 

9節を見ますと、”召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった”と記されています。聖書は”水をくんだ召し使いたちは知っていた”と記しています。彼らはイエス様が「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われて、そのとおりに水がめいっぱいに水を入れました。もし、イエス様の言葉に従わず、水がめに水を満たすという営みをすることがなければ、彼らは印を見ることは出来なかったのです。

 

”印”とはこのぶどう酒がイエス様から来たその”印”であります。イエス様の言葉に従うことで、”印”がイエス様から来たそのことを知ったのであります。つまり、主の恵みに与ることが出来た、この良質なぶどう酒の出所を知っているのは、水をくんだ者たちであることを私たちは心に留めたいと思います。

 

この水がめのぶどう酒の意味は私たちに何を示しているのでしょうか。100リットル以上の水が入る甕が六つあるわけですから、相当の量のぶどう酒です。それを祝宴に集まった人々に分け与えるのですから、これは正に福音の恵みというものを示しているのだと思います。

 

イエス様は最初に二人の弟子を得、更にフィリポとナタナエルを弟子にし、カナの婚礼に出席し、そして、エルサレムで宣教を開始されるのですが、その婚礼の席で水を喜びの象徴であるぶどう酒に変えられる奇跡を示されたのです。その意味は、私たちがイエス様の御言葉に従う時に、溢れるばかりの福音の恵みに与る、そのことを約束しているのであります。どのような時代にありましてもイエス様の御言葉に聞きつつ、喜びを以て福音の種を蒔き続けることを求められているのではないでしょうか。