その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかい、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書1章29節~34節】

 

 さて、あなたがたは、以前は自ヴンの過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、──あなたがたの救われたのは恵みによるのです──キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

行いのよるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のためい、キリスト・イエスにおいて造られたからです。

わたしたちはその善い業を行って歩むのです。

【新共同訳聖書 エフェソの信徒への手紙2章1節~10節】

 

  2024年、新しい年を迎えましたが、1日に地震が起き、人の命が失われ、ビルの倒壊、荒れ果てた瓦礫の山、悲惨な現実が明らかになるに従って、東日本大震災の光景を思い起こした方も少なくなかったろうと思われます。自然災害の前には本当に人間は無力だなと思わされました。が、一方で、こういう状況の中で、救援物資がぞくぞくと届けられ、災害救助のために多くの方々が全国から集まり、何とかしてこの悲惨な状況の力になろうとしている人々がおられることに、わたし達人間の力、共に生きるという思いが伝わってくるのです。一日も早い復興を祈り、わたし達もできるところで支援をしていきたいと願うものであります。

 

 今日の聖書の箇所、洗礼者ヨハネの記事ですが、いままで幾度かしてまいりましたので、重複するところもありますが。

洗礼者ヨハネの宣教の中心というのは。荒野で悔い改めのバプテスマを施すという、当時としては彼独自の宣教を展開しておりました。

荒野というのは日常生活を送るにふさわしい場所ではありません。荒野には悪霊が棲むと言われていましたので、通常、そこでは人は生活をしません。もし、そこで暮らすとなると”死”を覚悟しなければならないほど荒廃した場所でありました。

 

 ヨハネはラクダの毛衣を着、イナゴと野蜜を食料としていたと書かれておりますので、非常に禁欲的な生活であったと思われます。バプテスマのヨハネは病人や障がい者、取税人など罪人とされて人々を招き、悔い改めを促し、洗礼を授けておりました。こういうやり方は当時としては新鮮なものでありました。ヨハネから洗礼を受けることによって、ごく普通の人間として神の下(もと)で生きるという、そういうヨハネのバプテスマでありました。ですから彼の噂を聞いて、ヨハネの元に人々が集まって来たのです。

イエス様もこのヨハネの洗礼運動に賛同する一人でありました。パリサイ派の人々は、そういうヨハネの言動に対して、批判し、阻止しようとしたわけであります。

 大勢の人々自分を慕って集まって来ていると鼻高々になるはずでありますが、ヨハネはそのような状況の中でも「わたしの後に来られる方は、わたしはその方の履物の紐を解く資格もないほどだ」とイエス様をはっきり指示した人であります。

『ヨハネの指』という有名な絵画がありますが、ヨハネは文字通り、イエス様を指し示すという生き方を貫いた人であります。

 

29節を見ますと「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」とヨハネは告げています。この”世の罪を取り除く”という言葉は、”担ぐ”とか”担う”という意味が含まれています。ですから、”取り除く”とは人の罪を担ぎ、担い、引き受けると読み取れるのです。人間を縛り付けている罪から解放する、それが世の罪を取り除く神の小羊とイエス様を指し示しているのです。

彼は続けて31節後半、

 

 「この方がイスラエルに現れるために、わたしは水で洗礼を授けに来た」

32節では

 

 そしてヨハネは証しした。

 

更に、

 

 わたしは霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

  しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『”霊”が降っ

  て、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人であ

  る』とわたしに言われた。

 

と、記されています。この”聖霊”とは”風”とか、”息”ということを意味しています。神の風、神の息ということを示しています。

 そして更に”見る”という言葉が繰り返されています。ですからこの”見る”という言葉は、ヨハネが自分の中で起こっていることを表しています。”見る”という言葉はヨハネがイエス様に出会って、そしてヨハネの中で何が起こっているかわかかりませんが、非常に強烈な体験ではなかったかと思われるのです。ただ単にイエス様を見るということではなく、”出会う”という体験です。

洗礼は水で象徴されますが、同時にそこには永遠の風、神の息によって為される営みでもあります。私たちは世という荒野に例えて良いかもしれませんが、あるいは滅びる肉体を持っていますが、ヨハネはそこに永遠の風が一人一人に吹いていることを、聖霊によって洗礼を授ける人、イエス様に見たのだと思います。ですから、そこにイエス様とヨハネの原体験があったわけです。

 

 32節と34節に”証し”という言葉が繰り返されています。この言葉は法廷において証人が事件の真相を包み隠さず、ありのままに述べるという、それが”証し”であります。偽証や嘘偽りは決して許されません。

ですから洗礼者ヨハネは最後までイエス様を指し示し、その証人となりました。この洗礼者ヨハネを根底から支えていたのは、イエス様との出逢いでありました。

 

わたし達一人一人は、イエス様に出会った者であります。そして、これからも聖書を通して出会い続ける者であります。

エフェソの手紙の筆者であるパウロもイエス様と出会った一人であります。彼はキリスト者を捕え、牢に入れ、時には鞭打ち、そういうキリスト者を迫害する者でありましたけれども、復活のイエス様に出会い、キリストにある自由に目覚めさせられたのです。

今朝の記事の中でパウロはイエス様に出会う以前のことを宣べています。

 

 あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。

 

彼は神様から離れている自分の姿を思い起こし、それは肉のために生きる、自分の実現のためにだけ生きることであり、ある時には絶望し、落胆して生きる人間であったことを語っているのです。

そして、そのような失われた人間に対して、神様はイエス・キリストの十字架を通して、語り掛けて下さる。

 

 憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪 

 のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、──あなたがたの救われ

 たのは恵みによるのです──

 

パウロはここでイエス様と共に生きる恵みを記しているのです。

わたしたちは神に背き、罪を犯す存在です。しかし、そういう罪を繰り返しつつ、生きなければならないのです。そういう人間を造り替え、命あるものにするのは神の憐れみと神の愛、そしてそれはただ神様の恵みに以外のなにものでもありません。

わたしたちの心を神様に向けて開き、神様の恵みの賜物を感謝して素直に受け入れることが信仰なのであります。つまり、わたしたちが主によって受け入れられていることを受け入れることであります。それは人間の心や業によるのではなく、素直な素朴な心をもって受け入れることであります。

ヨハネが”見よ、世の罪を取り除く神の小羊”と告白したように、イエス・キリストを指し示すということです。

わたしたちにどのような破れがあり、欠けがあり、誤りがあり、貧しい器であっても、神様が一人一人をお造りになった、そして、それは神様の賜物であり、神の作品であると言えるのです。