神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書3章16節~21節】

 

 教会は先週から”降誕前節”に入っています。8週を経て、教会はクリスマスを迎えるのです。今、世界中で礼拝が守られています。世界中の教会がイエス様の御降誕をお祝いします。一方で、私たちが住む世界は争いが絶えず、非常に深刻な問題を抱えています。イエス様を信じる群れとして平和というものについて考え、祈り続けて参りたいと思います。

考えてみますと、イエス様がお生まれになった時、ヘロデ王は幼子を皆殺しにしたということが記されています。2千年前から権力者の思いというものは変わらないものだと思わされています。

そのような裏切りや殺戮、騙し合いの世に神はご自分の子であるイエス・キリストをおくってくださった、その恵みを思いながら今日の箇所を学んでいきたいと思います。

 

この16節は新約聖書の中でも有名な言葉であり、福音の内容というものを最も端的に示している言葉であります。この共同訳聖書の前の聖書では”神はその独り子を賜ったほどに世を愛してくださった”と記されています。

この”賜る”という言葉は、言うまでもなく”贈り物として与える”という意味であります。私たちはクリスマスにプレゼントを交換したりしますが、神様が贈り物としてイエス・キリストを与えて下さった、そのことがクリスマスの喜びなのです。

 

この”世を愛してくださった”という言葉がありますが。”世”とは言うまでもなく、私たちが住んでいる世界、人と人とが争い、憎み合い、傷つき、弱い者が犠牲になり、強い者が生き残る、そういう世界なのです。

全ての命が守られない、闇の夜が露わになる”世”。そういう”世”を神様は愛されたのです。イエス・キリストにおいて、今もこの”世”が神様の愛の対象であり、”愛し続けて”おられるということなのです。

更に、ここに”お与えになった”と示されていますが、これは言うまでもなく”無償”で私たちに提供されたということであります。そしてこの”与えられる”という言葉の中には、”死に渡す”という意味も含まれています。ただ単に、”あげる”ということだけではないのです。

 

現代は、何でもお金に換算してしまうという風潮がありますが、独り子をお与えになるということは、そう意味からすれば中々分かりにくいかもしれません。

パウロは『ローマの信徒への手紙』の中で”私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました”と述べています。つまり、神様の愛はその独り子イエスを十字架に引き渡すことにおいて、御自身の慈しみを示されたということなのです。

それが”与える”ということであります。

 

自分にとって最も価値あるもの、捨てがたいものを相手のために敢えて捨てる、そこに愛があるのです。

ここに神様の深い愛の意味が示されているのです。

 

17節以下を見ますと、”神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである”と示されています。更に”御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている”と記されています。

 

ここに”裁き”という言葉が使われています。しかし、神様は、裁かれる者と裁かれない者を二つに分けることはなさいません。なぜなら……、”神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。”

神様が愛を注がれる対象は”すべての人”なのです。世を愛された神は裁きではなく、全ての人を救いへと招いておられるのです。

 

ヨハネによる福音書の1章-9節には、

”その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。”と記されています。光であるイエス様、そしてイエス様は人間を照らす光なのです。それは私たちの過去、現在、すべてを明らかにする光であります。いうまでもなく罪あることをも明らかにする光なのです。このような光が世に来た。そのことは私たち自身がイエス様に出会い、そしてすべてを明らかにされて、光に照らされて、道を示されて歩み始めるということです。そのことがイエス様との出会いの中で成されるということです。

このことが人間を照らす光の意味です。

 

ある盲目の牧師がおられました。随分前に召されましたが。

まだ、視力を失っていない若い頃、医者を目指しておられたこの方は、インターン時代に眼底出血を煩い、周りの方々の必死の治療の甲斐も無く、最終的に失明してしまわれたそうです。医者になるという道を閉ざされ、家族や周りの方々にも迷惑が掛かる、いっそのこと死んでしまいたいと考えるようになったそうです。

絶望の淵に立たされたある時、聖書の光に出会われました。

 

ヨハネによる福音書の9章-2節に生まれつきの盲人を癒すという記事があります。

生まれつき目の見えない人を見かけた弟子たちはイエス様に尋ねます。

「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

その質問にイエス様は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えられました。

この言葉を牧師は聞いたとき、非常な驚きを覚えたとのことです。そしてこの言葉が、自分の人生を照らす光となったと仰います。闇に生きる者にイエス様は語り掛け、そして道を示してくださるのです。

 

イエス様の光は、人を根底から変革するものです。光に映し出された人間の姿は闇の中にあります。人は闇を愛し、そして滅びに向かっている存在であると言ってもいいでしょう。しかし、そういう闇に生きる者である人間にイエス様は出会ってくださるのです。

そして生きる道を示されるのです。闇そのものでしかない自分の姿を映し出されて、キリストと共に生きるものに変革されるのではないでしょうか。

 

それは神様が独り子を与え、世を愛され、そして今も愛し続けておられるがゆえに、イエス様は傍らに居られ、一人一人と共に歩んでくださっているのだということを、今日はこの箇所から覚えたいと思います。