イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちの主君にこう言いなさい。

 わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を作り、また地上に人と動物を造って、わたしの目に正しいと思われる者に与える。今やわたしは、これらの国を、すべてわたしの僕(しもべ)バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。

諸国民はすべて彼とその子と、その孫に仕える。しかし、彼の国にも終わりの時が来れば、多くの国々と大王たちが彼を奴隷にするであろう。

バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、バビロンの王の軛(くびき)を首に負おうとしない国や王国があれば、わたしは剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する、と主は言われる。最後には彼の手をもって滅ぼす。

あなたたちは、預言者、占い師、夢占い、卜者(ぼくしゃ)、魔法使いたちに聴き従ってはならない。彼らは、バビロンの王に仕えるべきではないと言っているが、それは偽りの預言である。

彼らに従えば、あなたたちは国土を遠く離れることになる。わたしはあなたたちを追い払い、滅ぼす。しかし、首を差し出してバビロンの王の軛を負い、彼に仕えるならば、わたしはその国民を国土に残す、と主は言われる。そして耕作させ、そこに住まわせる。」

【新共同訳聖書 エレミヤ書 27章4節b~11節】

 

以下に記すのは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である。

それは、エコンヤ王、太后、宦官、ユダとエルサレムの高官、工匠と鍛冶とがエルサレムを去った後のことである。この手紙は、ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもとに派遣したシャファンの子エルアサとフルキヤの子ゲマルヤに託された。

「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。

わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。

そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。

 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。かれらは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。

わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。

 主は、こう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。

わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。

【新共同訳聖書 エレミヤ書 29章1節~14節】

 

 前回、良いイチジクと悪いイチジクの幻で、神はエレミヤにもはや人知では及び得ない未来の計画、未来における新たな救いの計画というものを示されました。

 今朝は、なぜエルサレムに残った人々を”悪いイチジク”と見なされたのか。民族の存亡に関わる重大な危機を前にしながら、エルサレムに残された人々はそれをどのように受け止め、また、エレミヤの警告に対してどのような態度を取ったのか。それを御言葉に聞きたいと思うのです。

 捕らわれの身となってカルデヤの地に連行された人々は、二千キロにも及ぶとされますこの道程を、おそらく王族以外は徒歩で向かったことを考えますならば、しかも中東の気候風土の厳しさというものも考え合わせるならば、おそらく数年を要したのではないかと思われるわけです。

その間、ネブカドレツァルの脅威も言わば小康状態にあったのではないかと思われます。

ユダの最後の王となりますゼデキヤの治世の初めに、主の言葉はエレミヤに臨みます。それはエレミヤ自身の首に軛の横木と綱を嵌めて、諸外国の使者たちが集まっておりましたゼデキヤ王の元へ行くということでした。

エレミヤのこの”軛”とは、主の僕バビロンのネブカドレツァルに仕えるということを象徴しているものです。

 

諸外国の使者たちがゼデキヤ王の元に集まっておりましたのは、本来彼らは敵対関係にあったのですが、強大な力を持つネブカドレツァルの圧政に苦しめられているという共通点から、同盟を結んでバビロンに対抗しようと画策していたのです。

そこへ軛を負ったエレミヤが現れ、彼らに神の意志を伝えて警告するわけです。

 

万物の創造主である神は、御自身の目に正しいと思われる者にこの世を支配することを任せられたのだ。それがバビロンのネブカドレツァルなのだと言うのです。だから主の僕バビロンのネブカドレツァルに仕えよと警告をしたわけです。

ここには創造主なる神が歴史をも支配される神であることをエレミヤは強調しているのです。

神によって”私の僕”と呼ばれておりますネブカドレツァルは、古代オリエント世界の国家間、国と国との力関係を急激に変えた、その意味では政治的な手腕と才覚に長けた王であったと言われているわけです。

しかし、神はそのような人間的な力とか、才能の故に”主の僕”として彼を選ばれたのではありません。”主の僕”であることの重要で本質的な意味は”神の御心への奉仕”、そのものにあるのです。

神はそのためにレブカドレツァルを選ばれたのです。ですから、『七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪の故に罰する』(25章12節)と言われておりますし、『しかし、彼の国にも終わりの時が来れば、多くの国々と大王たちが彼を奴隷にするであろう』(27章7節b)と言われています。

ネブカドレツァルの支配は決して永久ではなく、神の御心に背くならば、必ずや終わりが来るということです。

 

神はご自身が選ばれた者たち、そのすべての言動をつぶさに見ておられる方だということを私たちは忘れてはならないのです。

エレミヤはゼデキヤに、諸外国と同盟を結んでバビロンへの反乱を企てることは神の意志に背くことだと強く警戒したのですが、その警告はユダをはじめとする諸外国の民族的な預言者たちや占い師、夢占いといった他の宗教者たちをとりわけ厳しく発せられています。

彼らはバビロンの王に仕えるべきではない言っているが、それは偽りの預言である。

このエレミヤの警告は礼拝の場で祭司たちやその場に集まっておりました民衆に対しても発せられているわけです。首を差し出し、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕える。そうすれば、命を保つ事ができる。ユダの預言者たちは、あなたたちに偽りの預言をしている。わたしは彼らを派遣していない。彼らはわたしの名を使って、偽りの預言をしている。

その偽りの預言者の代表格ともいえるのが、28勝に登場してまいりますハナンヤなのです。

このハナンヤはエルサレムへ対抗意識、敵愾心をあらわにしながら、祭司たちや民衆の前で主張するのです。

『イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。二年のうちにバビロン王の軛を打ち砕き、奪われた神殿の祭具を捕囚として連行されたヨヤキン王をはじめとするすべての民をエルサレムへ連れ戻す』

それに対して、エレミヤは答えます。

『アーメン、どうか神がそのとおりにしてくださるように。』

エレミヤは最初に”アーメン”と答えています。”アーメン”=その通りですという意味です。この”アーメン”は、しかしながらハナンヤの預言を単純に肯定しているのではありません。そしてまた、皮肉っているのでもありません。

エレミヤにとっても、同胞が捕囚の民となっているわけですから、その人々が解放されるということは何よりも願わずにはいられないことなのです。

その思いは寧ろハナンヤの比では無いとすらいえます。しかし、たとえそうであっても、エレミヤにとってそれ以上に重要なことは、人間的な望みではなく、神の言葉に示された、計り知ることのできない神の意志こそが最も重要なことなのです。

そのためには、人間的な思いや望みを退け、ただ神の言葉にのみ従う。これこそが真の預言者の使命であり、責任なのです。

 

エレミヤはハナンヤに告げます。『あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就する時初めて、まことに主が遣わされた預言者であることがわかる』

 

危機の時代は、ともすれば厳しい現実から目を背けて、安易な方へと向かいがちになります。悪いイチジクとみなされたエルサレムに残った人々のとった態度は、カルデヤの地に捕囚となった同胞と自分たちを区別して、彼らは神から報いを受けたのであり、捕囚を免れた自分たちは寧ろ神に守られたのだと思い出したのです。

神に自分たちは守られたのだからエルサレムに留まる限り、安泰なのだと信じたのです。しかも、諸外国と同盟を結んで、バビロンに反旗を翻そうとする動きは高まるばかり。このハナンヤのような民族主義的な預言者たちは、イスラエル民族としてのプライドや愛国心を煽り立てて、バビロンへの敵対心をいっそう掻き立てていったのです。ですから当然、バビロンの王ネブカドレツァルに仕えよと警告するエレミヤの言葉は、彼らの民族主義的な感情に高ぶった人のプライドや愛国心を貶めることなり、また、ハナンヤをはじめとする預言者たちのメンツを貶めることになり、エレミヤに対する憎悪、憎しみを掻き立てていったのでした。

 

エルサレムに残った人々の本質的な問題は、民族存亡の危機を前にして、そのことが自分たちの問題にならなかった、自分たちの信仰の根本、その在り方が実は根底から壊れているのだというふうには受け止めなかったことです。

寧ろ、自分たちにとって耳障りの良い、都合の良い言葉しか聴こうとせず、その意味で偽りの預言者の責任は非常に重いと言えます。

そうしてエルサレムの人々は次第に楽観的になっていったのです。楽観的な空気が漂い始めているのです。中には捕囚となった人々の財産を、平気で奪うという犯罪行為にまで及んでいったのです。そして平然と偶像礼拝を行っていったのでした。

こうして社会全体が道徳的に堕落し、退廃していったのです。

 

主イエスは、終末のしるしとして次のように警告しています。

『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗るものが大勢あらわれ、私はそれだと言って多くの人を惑わすだろう。にせ預言者も大勢あらわれ、多くの人を惑わす。不法が蔓延るので多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる』

 

ハナンヤはエレミヤの軛を外して打ち砕き、『主は二年のうち、バビロンのネブカドレツァルの軛を打ち砕く。』自らの預言の正当性を強調したのです。それに対する神の答えは『おまえは木の軛の代わりに鉄の軛を作った。』と言われました。

”鉄の軛”……即ち、ユダの滅亡を確実なものにしたということです。そしてまもなく、ハナンヤは主の言葉通り”死”をもって終わるのです。

 

エレミヤは捕囚となった人々に宛てて手紙を送っています。その捕囚の地にも偽りの預言者がいたからです。エレミヤは、神の恵みによって、”良いイチジク”と見なされた人々に異郷の地カルデヤでの七十年をどのように生きるかを具体的に示しています。端的に申し上げれば、神への信頼に堅く立って、腰を据えて生活を築き、周囲の異教の人々の為にも平安を祈って、互いに尊重し合う関係を忍耐強く築いていくようにということを示しているのです。

実はこのネブカドレツァルですが、彼は大変寛容な政策を取りました。イスラエル民族に共同体の自治権を与えましたし、彼らの宗教も認めたのです。また、優れた人材はバビロニア社会の中枢に登用したこともいわれております。このことはエゼキヤ書やダニエル書からも伺い知ることが出来ます。

 

主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたを顧みる。わたしは恵みの約束を果たす。あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしはあなたたちの為に立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。と言われるのです。そして何よりも重要なことは、『あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう』

 

今、私くしたちの世界もまた、深刻な分断の危機に直面しています。

しかし、ここで最も重要なことは、最後に神が言われましたように、私たちキリスト者はこの危機を前に、自分を見失ってはならない。

常に神に立ち帰り、神の言葉に聴いて従いなさいということです。

そのことは今本当に私たちに求められていることなのではないでしょうか。