「楕円形のはなし」内村鑑三 | 神とともに歩む

神とともに歩む

預言者ミカは「へりくだってあなたの神と共に歩む」よう、わたしたちに説き勧めています。(ミカ6:8)これは、わたしたちが自分の限界をわきまえ、神に全く依り頼むことを意味しています。

「真理は円形にあらず、楕円形(だえんけい)である。

 一個の中心の周囲に描かるべ きものにあらずして、

 二個の中心の周囲に描かるべきものである。

あたかも地球その他の遊星の軌道のごとく、

一個の太陽の周囲に運転するにかかわらず、

中心は二個あ りて、その形は円形にあらずして楕円形である。

有名なるアインシュタインの説によ れば、

宇宙そのものが円体にあらずして楕円形であるという。

人は何事によらず円満と称して円形を要求するが、

天然は人の要求に応ぜずして楕円形を採るはふしぎである。

楕円形は普通にこれをいびつと言う。

曲がった円形である。

決してうるわしきものではない。

しかるに天然は人の理想に反して、

まる形よりも、いびつ形を選ぶという。

 ふしぎでないか。

そして真理は曲がり形(なり)のいびつ、

すなわち楕円形であるとわれらは言うのである。

すなわち、その中心は二個であって、一個にあらずと言うのである。

哲学的に言えば、物と霊とがある。

エキステンションとソートである。

万物に二方面があって、一は全く他とその素質を異にする。

もし思想の上より言うならば、

万物ことごとく物なりと言い得るならば、

説明はいたって簡単になり、

円満なる哲学を組み立つることができるが、

しかしながら、事実としての霊の存在を拒むことあたわざるがゆえに、

ここに問題は複雑になるのである。

万物を霊と見るも同じである。

物の存在を否定するあたわざるがゆえに、

いわゆる霊的哲学を組み立つることができない。

デカルトをもって始まり、

スピノザ、ライプニツ、カントを経て今日に至るも、

この根本問題を円満に解決することができない。

古い禅宗の歌に、

「麻糸の長し短しむずかしや  

   有無の二つをいかに判別(わか)たん」

というのがあるが、そのごとくに、

物と霊とを判別し、物をもって霊を説明せんとするは、

霊をもって物を説明せんとするがごとくに難(かた)くある。

しかり、不可能に見える。

しかし難くあればとて哲学者は問題を放棄しない。

そして哲学の進歩はここに原因する。

 すなわち楕円形的の真理の内に

真理の深味と興味とがあるのである。

真理は単純であると言いて、

簡単に容易に説明することはできない。

円満なる哲学は常に疑わしい哲学である。

いわゆる「頭脳(あたま)の内によくはいる哲学」は、

はなはだ怪しい哲学である。

哲学も科学と同じく

思索的(スペキュレチーブ)であってはならぬ。

叙 述的(デスクリプチーブ)であらねばならぬ。

真理は一個中心の円形にあらずして、

二個中心の楕円形であるからである。

 

宗教においても同じである。

宗教も円形にあらずして楕円形である。

その中心は一 個にあらずして二個である。

ただにその教義より見るも、

そのしかるを見る。

宗教は神と人とである。

神のみでない、また人である。

人のみでない、また神である。

宗教を単に神学と解し、

神を知ること、これ宗教であると言うならば、

問題はいたって簡単であるが、

事実はしからずである。

キリストは神であって、また人である。

ユニテリアン教のように、

キリストは神にあらずして人なりと言えば、

説明は簡単、明瞭であるが、

人は全体にその説明をもって満足しない。

キリストの人たるは疑わないが、

彼にまた神らしきところがある。

彼は同時に人であってまた神である。

説明は円満を欠く。

解するに、いたって難い。

しかし事実なるをいかんせん。

われらは不可解と承知しつつキリストの神人両性を信ずる。

頭脳に彼を受くるは難いが、

心は彼をもって満足する。

しかり、彼ならずば満足しない。

 
その実際的方面において、

宗教は慈愛と審判である。

愛と義である。

愛のみではない、また義である。

義のみではない、また愛である。

一中心ではない、二中心である。


円形ではない。楕円形である。


もし宗教が義のみであるならば、

これをおこのうはいたって容易である。

愛のみであるならばまたしかりである。

宗教を実行するの困難は、

それが愛であって同時にまた義であるからである。

忠ならんと欲すれば孝ならず、

孝ならんと欲すれば忠ならずというと同じジレンマにあると同じく、

愛と義とを同時に全うするは、

忠孝両道を同時に全うすると同様に困難である。

されども信仰的生活において、

このジレンマはまぬかるべからざるものである。

われら完全(まった)からんと欲せば、

このジレンマの内に完全からねばならぬ。

実につらいことである。

されども人生の事実であるがゆえに、やむを得ない。

今の教会信者のごとくに、

「神は愛なり」とのみ解して、

「神は義なり」との明白なる教えに耳を傾けざるならば、

事はいたって簡単であるが、

人生の事実はこれを裏切りて、

弊害百出して愛は愛ならざ るに至るは、

教会現在の状態が証し得て余りがある。(略)

 

真理は二中心である、

一中心にあらず、楕円形である、

円形にあらずと言うならば、

人は言うであろう、

「それは二元説であって、一元説でない。

そして二元説は哲学論としても常に不完全の証拠である。

人はおのずから一元説を必要とする。

思想的に二元説をもって満足することはできない」と。

余輩といえども、よくこの事を知る。

されども満足に二種類ある。

思想の満足と事実の満足と、これである。

そして思想の満足は必ずしも事実の満足でない。

そこに人生の困苦(くるしみ)がある。

そして困苦の内に進歩と発達と、

最後に永遠の平和とがあるのである。

これを義と愛との対照について見んか、

真剣に生涯を送らんと欲する者は何ぴとも、

その調和に苦しまざるを得ない。

これを思想の上に調和せんとするは不可能である。

されども人生の長き実験において調和点を発見する。

されども実験的に調和するのであって、

思想的にするのでない。

そしてキリスト信者の場合において、

彼は義と愛との調和を、

キリストの十字架において認むるのである。


「憐憫(あわれみ)と真実(まこと)と共に合い、

     義と平和と互いに口づけせり」
             (詩篇85/10)

との理想は、キリストの十字架において実現されたのである。 

義の神がいかにして罪人を罰せずしてゆるさんかとは、

神御自身にとり至難の問題であった。

そして神はこの問題をキリストの十字架をもって美事に解決したもうた。

すなわちパウロが言えるごとし。


「イエスを信ずる者を義とし、なお自ら(御自身)義たらんためなり」
                       (ロマ書3/25-26)


と。すなわちイエスにおいて、

神の憐憫(慈愛)と真実(公義に基づける審判の精神)

とが合体したのである。

義と平和とが互いに口づけしたのである。

忠孝両道が全うせられしがごとくに、

義と愛とが完全に調和したのである。

されども調和は実験的であって思想的でない。

思想的にはキリストは依然として「つまずきの石」である。

信者は十字架の救いを実験するのであって、

解得したのではない。

彼は実験をもって理論を超越したのである。

真理は意地悪くも依然として楕円形であって円形でない。

われらは理解(わか)らざるに理解らんと欲し、

苦戦、奮闘して、ついに人生の実験に解決以上の解決を得るのである。

すなわち真理は実得すべきものであって、

理解し得べきものでない。それゆえに貴いのである。(略)

 

彼はただの「やさしいイエス様」でなかった。

彼はラザロの墓に涙を流したまえり

といえども、また「悪魔よ、後ろに退け」と言いて、

弟子ペテロを叱咤したもうた。

(略)そして主がそうであったから弟子もまた、そうである。(略)

人は使徒ヨハネを特別に「愛の使徒」というが、

しかし12使徒のうちに実はヨハネほど、こわい人はなかった。(略)

愛することと、はなはだしく憎むこと、

はなはだしきがヨハネの特性であった。

彼がもし今日のキリスト教会に現われたならば、

彼は激烈に、監督、牧師、伝道師を初めとして

信者一同に排斥せらるるであろう。

使徒ヨハネはイエスのふところにあって、

最もよくイエスの心を知りし者であった。

ゆえに、よく愛して、よく憎んだ。

彼にありて、愛と義とは最もよく発達した。(略)

何事にも限らず円満を要求するが、

まちがいの始めである。

真理は円形にあらず、楕円形である。(略)

 
地球その他の遊星の軌道は楕円形である、

宇宙は楕円体であるという。

真理もまた二元的であって、

円満に解決し得るものでない。

患難の坩堝(るつぼ)の内に燃え尽くす火に

鍛えられて初めて実得し得るものである。

ここにおいて知る、教会も神学校も、

法王も監督も神学博士も、われに用なきことを。

まことにありがたいことである。」


              内村鑑三著 『聖書之研究』より