Killing Me Softly With Her Song - Perry Como
やさしく歌って - ペリー・コモ(アメリカの歌手、エンターテイナー) 26BPM






この歌は、昔の社交ダンス音楽CDにルンバ曲として編曲されて収録されていました。



「やさしく歌って」は、ノーマン・ギンベル作詞、チャールズ・フォックス作曲の1971年のポピュラー・ソングである。オリジナルは、歌手ロリ・リーバーマンの歌唱によるものだった。
71年に19歳と若かった女性歌手のロリ・リーバーマンはギンベルとフォックスを紹介され、彼らによる曲の提供とマネージメントをまかせる契約を結んだ。リーバーマンは、71年に、当時まだ無名だったドン・マクリーンが歌う「Empty Chairs」という曲をロサンゼルスのクラブで聴いて感銘をけ、「Killing Me Softly With His Blues」という詩を書いた。これを元に作詞家のギンベルと作曲家のフォックスが曲に仕上げた。





1972年8月にリリースされたリーバーマンのオリジナルはヒットしなかった。しかし、飛行機の機内BGMとして採用されていたこの曲を、ロバータ・フラックが偶然聴いて気に入って歌い、彼女のバージョンが大ヒットとなった。リリース後4週間で全米1位、1973年2月24日から4週連続でビルボード誌第1位を達成し、さらに3月31日にはもう一度1位になった。ビルボード誌1973年年間ランキングは第8位。これにより、フラックはグラミー賞で最優秀レコード、最優秀楽曲、最優秀女性ボーカルの3部門を受賞した。









ペリー・コモ(1912年5月18日 - 2001年5月12日)さんは、ペンシルベニア州キャノンズバーグでイタリア系アメリカ人の家庭に生まれた。アメリカ合衆国の歌手。フランク・シナトラと並ぶ大物エンターテイナーとして多くのテレビ番組、ステージで活躍した。





理髪店の見習いをしていた頃に町の歌声コンクールで優勝したことがきっかけで1936年に歌手としてデビューした。当時は「歌う床屋さん」と呼ばれて親しまれた。フレディ・カーロン楽団の専属歌手として活動中にテッド・ウィ―ムスの目に留まり、専属歌手となる。だが第2次世界大戦の余波で楽団は解散、ペリーは再び理髪師に戻った。





そんな彼の歌声に対する期待が高まり、ラジオのCBS放送で自身のショウを開始、1943年にはRCAレコードと契約、デビュー曲は「グッド・バイ・スー」。1945年の「時の終わりまで」は初めてのミリオン・セラーとなった。 この時期には数本の映画にも出演したもののすぐに撤退。ラジオやテレビをうまく活用しスターへの道を歩んだ。初期の頃の歌唱スタイルはビング・クロスビーに酷似していたが、やがて自分のスタイルを確立。クロスビーやフランク・シナトラと並び、20世紀を代表する本格派のポピュラー・シンガーとして君臨した。





レコード会社は、デビュー当時から40年以上にわたりRCAに所属した。このような長期間同じ会社にいることは、当時から待遇アップなどの条件でレコード会社を移籍するのを常識としたアメリカの考え方としては非常に珍しく、国内外問わずファンに誠実な印象を与えた。またマフィアとの関係を嫌いカジノでの公演を拒否し続けた人物としても知られ、フランク・シナトラと異なりスキャンダルの少ないクリーンな歌手として、芸能生活を送った。
1979年には初めての来日公演を果たしてる。
「Warm at heart」ともいわれるその暖かく優しい歌声は時代を超越して支持されている。2001年5月12日、フロリダの自宅で死去。享年88歳。



歌詞の翻訳紹介(ほぼ直訳です)
いい歌を歌ってるって聞いたし、スタイルがあるって聞いた
それで、私は彼女に会いに来て、しばらく話を聞いていました
そして、そこにいたのは、私の目には見知らぬ少女だった

[コーラス]
痛みをギターを弾く指でかき鳴らす
彼女の言葉で私の人生を歌う
彼女の歌でそっと私を魅了する
彼女の歌でそっと私を魅了する
彼女の言葉で私の人生のすべてを伝える
彼女の歌でそっと私を虜にする

[2節]
私は心が熱くなり、顔を紅潮させ、人混みの中で恥ずかしくなった
彼女は私の手紙を見つけて、一通一通声に出して読んでくれた気がしました
私は彼女が終わることを祈ったが、彼女はただそのまま続けた

[コーラス]
痛みをギターを弾く指でかき鳴らす
彼女の言葉で私の人生を歌う
彼女の歌でそっと私を魅了する
彼女の歌でそっと私を魅了する
彼女の言葉で私の人生のすべてを伝える
彼女の歌でそっと私を虜にする