Eiko Shuri(Singer, Entertainer) - To The North Country
北国行きで(歌手、エンターテイナー) - 朱里エイコ



朱里エイコ(本名:田辺栄子、1946年3月19日 - 2004年7月31日)さんは、日本の歌手である。日本国内外で活動した。東京都出身。




1946年3月19日に、舞踏家兼振付師で「エド・サリヴァン・ショウ」に出演経験がある朱里みさをを母に、オペラ歌手を父に、「朱里みさを舞踏団」として巡業中の北海道札幌市で生まれる。生後間もなく家庭内暴力で両親が離婚し、巡業から戻った1949年秋から東京で育った。母は舞踏団を率いて全国巡業や渡米巡業などでして忙しく、叔父宅に預けられ、母と住んだのはかなり大きくなってからという。



1964年に日本人の海外渡航が自由化されると、11月に18歳で単身渡米し、ボブ・アルシルバーに師事する。ハリウッドからプロデューサーのトーマス・ポールが来日した際、多数の応募者からオーディションに合格し、ダウンタウンのエルコース・ホテルで初舞台を経験する。この年から2年間の契約で、ラスベガスやリノ、レイク・タホ、ハワイ、シアトル、シカゴ、ニューヨークなどアメリカ各地の一流ホテルやナイトクラブで活動する。無名の新人であるため、アメリカのランキング上位40曲が歌唱できることを常に求められる。ラスベガスでサラ・ヴォーンと同じ舞台を経験する。



1966年9月に帰国してリサイタルを日生劇場で開催する。以後レコード発売やワンマンショー開催など活動するも人気を博さず、ショーを観た芸能関係者は「彼女の持ち味が生かされるほど、当時の日本は進んでいなかった」とのちに語る。
1969年に再び単身渡米する。以前と違う自分を試すためグループに所属せず単独のエンターテイナーとして勝負することを決心し、ホテルと契約、バンドの編成、バンド・メンバーの給与支払いなどのすべてを自身で担い、ラスベガスのリヴィエラ・ホテルなどで活動する。



1970年1月にラスベガスでショーが大成功し、2月にEiko Shuri and her bandとして「サハラ・ホテル」で2か月間ロングラン公演し、ネバダ、ニューヨーク、ロサンゼルス、ハワイでワンマン・ショーを開催する。
1971年2月に一時帰国し、ワーナー・パイオニアと契約する。



アメリカで活躍した経験を基に日本で再び活動を始めると、1972年1月に発売した「北国行きで」が大ヒットして第23回NHK紅白歌合戦に初出場するなど、デビュー8年目で日本国内の人気を得た。1972年10月のショーを最後にアメリカから帰国する。



1972年3月と5月に交通事故で頸部外傷を患い、心身が不安定な状態となる。1973年2月14日に福島県郡山市の「朱里エイコ・リサイタル」で、歌唱中に歌詞を間違えて途中から失声する。公演は途中打ち切りとなり、エイコはそのまま楽屋から失踪し、翌日以降の福島市といわき市の公演がキャンセルとなった。

1975年にマネジャーの渥美隆郎と結婚すると、安易な職域結婚として週刊誌などの芸能マスコミが批判的に報じる。アメリカで10年以上生活したエイコは、気兼ねなく会話して信頼できるパートナーと共に仕事することに違和感がなかった。

アメリカで鍛えた歌唱力とダンスに加え、三味線やピアノを演奏しながら歌い、得意の玉乗りを披露するなど、ステージ構成や行動力が話題となる。

1975年3月28日に渡米し、4月1日から半年間、ニューオリンズ、プエルトリコ、ラスベガスなど各地でワンマンツアーを開催する。ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソンなどの番組に出演し、ツアー初日のショーをABCが放送した。4月に発売した「AH SO!」は、三味線を演奏しつつ歌うと観客が「AH SO!」と掛け声するなど、公演で好評となる。

6月に、ショーを見たタワー・オブ・パワーがジョイント・レコーディングを企画する。ロサンゼルスのワーナースタジオで彼らの作品を中心にたびたび打ち合わせを重ね、「愛のめざめ I'm Not A Little Girl Anymore」と「絶体絶命 Buring My Bridges Behind Me」の2曲を10月から約1か月半を費やしてレコーディングし、日本とアメリカで発売した。

1976年3月に、フラミンゴ・ラスベガスでショーを見たコメディアンのレイカルド・デュオからカーネギー・ホール出演を打診される。6月19日に、日本人女性で初めてカーネギー・ホールで公演したレイカルド・デュオとのジョイント・リサイタルは超満員となる。

1966年9月に帰国してリサイタルを日生劇場で開催する。以後レコード発売やワンマン・ショー開催など活動するも人気を博さず、ショーを観た芸能関係者は「彼女の持ち味が生かされるほど、当時の日本は進んでいなかった」とのちに語る。

1972年に「北国行きで」がヒットした頃から「実力重視ではなくヒット曲を重視する日本の芸能界は、ヒットがなければテレビに出られない、なぜ自分は日本人に受けいれてもらえないのか」と葛藤を続けた。

当時の日本はアイドル歌手が全盛で、周囲から実力派と評価を得ても努力して経験を重ねたエイコは、苦しみ、ヒット曲に恵まれず世間から忘れられてしまうのではないかと焦った。
精神的に不安定ながら公演を続けるが、1983年6月に名古屋で失踪してしばらく入院したが、復活を望む声援を得て徐々に活動を始める。

赤坂コルドン・ブルーに出演して1週間余、開演時間を過ぎても会場に現れず、品川区の自宅居室でパニック状態に陥り苦しみ悶える状態で関係者に発見される。栄養ドリンクを飲用直後に精神科で処方された薬剤を服薬したことで異常を呈していた。当日の公演は中止になり、のちにストレスなどから肝臓病を患い5年間入院加療した。
2004年7月31日に、虚血性心不全のため自宅において58歳で死去する。ウィキペディアより