「蒟蒻問答(こんにゃくもんどう)」は住職のいない寺の偽和尚となった男に、修行僧が禅問答を持ちかけるという古典落語だ。この問答とは一体何なのか。
「仏教教義に関する議論で、今でもチベット仏教などでは盛んに行われています。一方、日本の禅仏教では、師匠が出した『公案』と呼ばれる問題を弟子が必死に解く、という色合いが濃いですね」と浄土真宗本願寺派 如来寺第19世住職の釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さんは解説する。
釈さんが禅問答の不可思議な世界をさらに掘り下げる。
日本の禅宗には、臨済宗(りんざいしゅう)(開祖・栄西/えいさい)、曹洞宗(そうとうしゅう)(開祖・道元/どうげん)、黄檗宗(おうばくしゅう)(開祖・隠元/いんげん)の三派がある。ひたすら座禅に打ち込むのが曹洞宗の特徴で、黄檗宗は建築や読経に中国禅宗の影響を色濃く残す。そして、座禅に加え禅問答を修行に取り入れているのが臨済宗である。
仏道の真理は言葉や文字で表せない。この考え方が禅宗の基本だから、座禅を組み、身体を使って悟りを目指す。ニューバランス 996
つかんだ真理は言葉では伝わらず、心と心が相通ずる「以心伝心」でしか届かない。
だが、人間のコミュニケーションにおいて、言葉は最も重要な要素である。言葉にできない真理へ、言葉を使いながら近づいていく。この果てしないせめぎ合いの試みこそが禅問答と言えよう。
だから、すっきりした模範解答はない。どっちつかずで、まだるっこしかったりする。そのため、訳のわからないやりとりは「禅問答みたい」と言われてしまう。
けれども、世の中、そう何もかも白黒はっきりつけられるものごとばかりではない。時には禅問答の出番だってある。たとえば、まさに「心」の問題について。
禅宗の始祖・達磨大師(だるまたいし)が、壁に向かって座禅を組んでいると、後に二祖慧可(えか)なる修行僧が、こう問いかけた。
「私は心が不安です。師よ、どうか私の心を安らかにしてください」
達磨大師は言う。
「その不安な心とやらを、ここに取り出してみなさい。そうしたら、あなたのために、心を安らかにしてあげよう」「心を探し求めましたが、ついに見つかりませんでした」
達磨大師の結論はこうだ。
「不安な心がないことがわかったのなら、それでもう安心ではないか」
この問答など、へ理屈のように見えるが、ある面、真理である。現代科学の知見をもってしても、頭を開いて脳を取り出し「これが心です」とは断言できない。心に実体はない。あるのかないのかわからないものに対するこだわりを捨てれば、不安の質も変わってくるニューバランス 574
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禅問答はある意味では「師が弟子を言葉で縛ってくる」といった面がある。あえて身動きできないように師が追いつめてくるのである。そこを弟子がブレークスルーする。バッと、真摯な一歩を踏み出すのだ。師がその一歩を引き出す。これを「啐啄同時(そったくどうじ)」などという。