社長の履Rec書のブログ
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The Future Is Unwritten


社長の履Rec書のブログ

会長のロックンロール黄金時代


半年間の間に「社長の履Rec書」に登場した昔の仲間たちも
何十年かが経つとバラバラになったり音信普通になったり、
故人になった人もたくさんいます。


誰でも若かりし時代はピチピチと躍動しています。
今の自分は棚に上げて記憶の中の仲間たちは若いままです。
だからクラス会、OB会ではガッカリすることが多いのですね。
思い出は美しいと申します。


昔話は昔話として記録しておきさえすればいいものを
その「美しい思い出」を壊すように
この間から野中と友人たちの現在を書き始めました。
会長のロックンロール黄金時代
今では登場人物の容姿も行動もすっかり変化しております。
ある意味醜悪かもしれません。
でも事実は事実。


しかも年は取っても老人になるには早すぎるとばかり
チョイでも超でも何でもいいからおやじのままで遊び続けたい
ていうか、死ぬまで老人にならずに生きていたい。
迷惑な話ではありましょうが、そう決めちゃった連中です。


たとえみんなから露悪趣味と言われても
そんな2007年の野中規雄と仲間たち、
過去・現在・未来で言えば「現在」篇
それをしこしこと書いていきます。



***



クラッシュのジョー・ストラマーの自伝映画
「LONDON CALLING / ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー」
が、ジュリアン・テンプル監督で9月に公開されます。


この映画を見てショックを受け「醜い」自分でもいいから
このまま正直に曝していこうと思ったのがキッカケでした。
映画については別の機会に書くつもりですが
カリスマであったあのジョーですらこんな人間的な悩みや苦しみが、、
それなら一般人の私の迷い道クネクネ程度は当然だな
と安心した次第です。


映画の原題は「The Future Is Unwritten」
カッコ良すぎるタイトルですけど真実ですもんね。
過去は過去で終わらず、現在に続いているが
未来というものはまだどこにも書かれていない。



2007年8月13日完結!! thanks・・


こっちに引っ越しました!!


感謝御礼


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去年の11月14日から始めたこのブログもほぼ8ヶ月、
きのうで無事終了しました。


とても不思議なんですが、すっかり忘れ去っていた当時の記憶が、
書いているうちに次々と手繰り寄せられる感じで蘇ってきて
思いの他こんなにも長く続けることができました。
きのうまで全部で108本ですって!
偶然ですが、この年齢になっても未だに煩悩の多い私には
ちょうどいい区切りの数字かなと思われます。(笑)
例のTVドラマ「LOST」も108がキーワードだったし。


みなさんからメールやメッセージやコメントやハートマークを
たくさん頂いたのも、ここまで続いた大きな理由だと思います。
本当に有難うございます。


結構驚いたのは、業界の飲み会などで「見てるよ」と
声をかけてくれる人が本当にたくさんいたこと。
「メッセージくらいくれればいいのに」と思ったり
「ヤバイこと書けないから『裏履Rec書』でも始めようか」と思ったり。


そして何より、このブログがキッカケで何十年間も音信不通だった
人たちと連絡が取れたことが嬉しい波及効果でした。
全員の名前は書けませんが、あの人、この人・・・
さすがにネット時代だな、と。
LAやロンドンからコメントくれた人を初めとするみなさん、
このまま又去らないで下さいね。
野中もあと1年は会社にいますから。どこかで飲みましょうよ。
危なくてここに公開できなかったネタは、
その時お酒に酔ったフリでもしてお話しましょうか。


リタイアまであと1年なのだし、何らかの形で続けたら?
と言ってくれる仲間もいますので、
ひとまず「社長の履Rec書」としてはここまでにして、
又何らかの形で登場するつもりです。


ともあれ、長くつきあって頂いて有難うございました。
ゆうべ早速お疲れ会やったけどうちのスタッフも、有難う!


感謝です



野中規雄

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(リタイアまで百マイル)

マウンテン(社長の履Rec書最終回)

★マウンテン / 暗黒への挑戦(Live-The Road Goes Ever On)★

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マウンテンとは、あのウッドストックにも出ていた、
ギター;レスリー・ウェストとベース;フェリックス・パッパラルディを
中心とするアメリカン・ハードロック・バンドです。
その1969年にレスリー・ウェストのソロ・プロジェクトでデビューし
すぐに正式なバンドとなって70年代初頭を走ります。
(元クリームのプロデューサーでもあった、バンドの音楽的支柱
パッパラルディは1983年奥さんに射殺されています)


私が大学3年生の時に「ミシシッピー・クイーン」がヒットしました。
でもブリティッシュ・ロック・フリークで、ツェッペリンこそが
ハード・ロックだと信じていた私にとっては、マウンテンは
「ま、普通のハード・ロック・バンド」の認識でした。


ところが入社して最初に出席した編成会議の席上で
「これはロックの革命的なバンドなんだ!!」とつばを飛ばす
長髪の赤ら顔アメリカインディアン風担当ディレクターがいて
そのディレクターの情熱と迫力あるプレゼンに圧倒されました。
それが我が師、『堤光生さん』との初めての出会いでした。


日本では堤さんが
●71年12月の「ナンタケット・スレイライド(マウンテン3)」
の発売をキッカケに怒涛の攻勢をかけていました。
●72年3月「悪の華(マウンテン4)」発売
(72年4月ここで私が入社します)
●72年5月「勝利への登擧(マウンテン2)」再発
●72年7月「暗黒への挑戦(マウンテン5)」発売
●72年10月「レスリーウェスト(マウンテン1)」再発
1年間に新旧譜合わせ実に5枚のアルバムを発売したわけです。

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記憶では「暗黒への挑戦」リリースの時だったと思うのですが
宣伝の私が放送局まわりをして深夜に会社に戻ると
何か一心不乱にデスクで原稿を書いている堤さんがいました。


横目で見ながら「お先に失礼しまーす」と帰った翌朝10時半
「おはようございまーす」と出社すると
堤さんは前の晩と同じ格好、同じ姿勢で原稿を書いていました。


その日の夜も堤さんは原稿を書いていました。
そして実に2日間徹夜して書き上げたのが「ハーモニックス」という
レスリー独特の奏法についての今や伝説的な音楽解説原稿。
それに加えてマウンテンの宣伝計画と営業マニュアルでした。
入社していきなりディレクターの仕事というものを見せつけられ
自分もいつかあんなことをしてみたい、と憧れた瞬間でした。


***


それ以来私が洋楽を去るその時まで、堤さんは私にとっては、
人生で最大の尊敬できる恩師であり先輩であり、
いつか追いついて越えたい最大のライバルでありました。
何と12年間の長きにわたって、その堤さん直属で仕えました。
「仕える」という言葉が一番ふさわしかったでしょう。
堤さんはいわゆる天才でしたから、まさに畏怖すべき神であり
同時に恐ろしい悪魔のような人でした。
堤さんの予言はことごとく当たりました。
その後のコンピュータゲームの隆盛も、今で思えばi-podも、癒し系
音楽のブームも格闘技ブームも20年前に予言していました。
(唯一「バーチャル・アイドル」の出現はまだですかね?)


2人が「ディレクターと上司」という関係の時代、
チキンで慎重な私の尻をたたく乱暴な上司が堤さん。
ある意味ピッタリの相性であったはずです。
このブログで偉そうに自分の成功体験を書き散らしてきましたが
そのうちのいくつかは堤さんという上司がいなければ絶対にあり得ないものでした。
最初のモット・ザ・フープルからエアロ、ジャニス、チープトリック・・・
すべて堤さんのバックアップがあったからこそできた仕事でした。
(エアロスミスの発売の仕方なんて、マウンテンの物真似ですよね)


「営業なんか気にするな!スターディレクターは社長より偉いんだ」
「行け行け!構わずやれ!それより、もっとアイデアを飛ばせ」
「ケチケチしててヒットなんか出るか!金は有効につかうものだ」
「企画だ、企画、ディレクターはとにかく企画が命だ」


その強烈で強引なカリスマ的手法は先輩だろうが上司だろうが
一切構わず蹴散らして突き進むというものでしたから
合わない人たちも数多く、私はその場合は補佐官役をしました。
上役のフォローをするのは変ですけどね、あ、秘書官か。
後輩や部下たちにとっては通訳をやりました。
「あの人が言ってることはこういう意味だよ」と。巫女かい!


そんな、異なる者同士が組んだ無敵のタッグではあったものの
私が中堅ディレクターになり課長になり次長になって行く中、
徐々に私と堤さんの間には微妙な溝ができてきます。
クラッシュ以降私に芽生えた自立心みたいなものだったでしょうか、
「堤さんとは関係なく自分で仕切りたい」願望。


80年代終盤、終に別れが来た日、それは突然でした。
いわゆる「キレた」のが、何がキッカケだったのかわかりません。
積もり積もっていたものの堰が切れたのかもしれません。
それは私が入社以来続けていた「仕えること」「補佐官」「通訳」
を放棄した日であり、心が堤さんから離れた瞬間でした。
もう同じ道は歩かない、と。
1990年、同時に洋楽からそれぞれ違う世界に異動になって
その後ほとんど接触することもなくなり、時は過ぎ・・・
いつか10数年が経っていました。


***


先週久しぶりに本当に久しぶりに堤さんのご自宅に伺いました。
数年前に病気をされて今はそのリハビリ中とのことでしたが
不義理で不肖な弟子の私を快く迎えてくれました。
まず長年のご無沙汰をお詫びし、私もリタイア間近というお話をしてから、ちょうどこのブログの時代の思い出話に華を咲かせました。
「君はエアロスミスよりジャニス・イアンの時の方が光ってたよ」
「ディック・セントニクラウスなんて会話なしのままアイコンタクトで
大阪限定発売決めちゃいましたよね~」etc.


堤さんはベンチャーズの影響でギターを始めファンクラブをつくり
慶応の学生の時に加山雄三さんとランチャーズというバンドを結成し
そこのギタリストだった経歴の持ち主です。
とにかくギターを抱えどっぷり音楽に浸かっていた堤さんは
会社を退社されるとすぐに独自のギターアンプを作ってそれが
リー・リトナー他のギタリストたちに賞賛されるようになり
その技術を日本、イギリス、韓国、アメリカに特許出願しました。
私がお邪魔した時はアメリカの結果がまだ出ていませんでしたが
その他の国の特許は取れていました(すげぇ!)
日本の特許は今年の春に取れたばかりだそうです。
これからはそのアンプを作ることに力を注ぎたいんだよと、
いい笑顔で語ってくれました。


あっという間に時間が過ぎて最後に
「私から堤さんへの一番のお土産はこれかと持ってきました。
堤さんに教えてもらった仕事の結晶がこれだと思います。」と
ザ・クラッシュのアナログ・シングル・ボックスをお渡ししました。

「おーーーーーこれはいいや!最高だよ、野中さん。


イギリスのレーベルはこのグラデーションが利いていたんだ。
これだったらイギリス人も欲しがるね。
カッティングもやった?いいなあ、うらやましい。


じゃ、偶然だけど一つ言っておくよ、これからはアナログだ。
デジタルの次は絶対にアナログの時代が来るからね。」
手渡された堤さんの名刺にはこう書かれていました。
「Analog Sound Lab.」
それは堤さんの工房名であり、例の特許のアンプ名でもあります。


忘れやしませんよ、堤さん。堤さんの予言ですもん。
こっちは時期的な偶然ですが、今までアプルーブの取れなかった
マウンテンのカタログがやっと本国からOKが出たようで
今秋遂に紙ジャケで発売できると白木が言ってます。
出来上がったら真っ先にお送りしますね。
あの「ツイン・ピークス(異邦の薫り)」まで出ます。
西亀さん担当のライブ・イン・ジャパンでしたね。
私にとっては「チープ・トリックat武道館」の元ネタですよ。
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そんなわけで「社長の履Rec書」最後の項の写真は堤さんと私。
野中がやつれてるなあ、ニューキッズやってる頃かあ。
「ニューキッズ神社」の前の年末か正月か
ナルホド・・・

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