一方的に読んでる記事に対しての感想。(社労士は食えない、と認めたほうが誠実だと思う) | 法律系試験、ドイツ語その他、しろうと勉強メモブログ

(コメント書きに行くほどでもないのでひとり言で…。※ここ、先月から忍者アナライズをつけてるねんけど、新記事を書いても誰ひとり見に来ないことがそれではっきりしたので、もう安心して、思っていることを或る程度ちゃんと書いとく。)


わたしは、資格で食えるか?という議論には意味がないというのは暴言、とまでは言わないけど詭弁だと思う。あるいは、やや無理のある(現実離れした)希望的観測であり、複雑な現実の単純化。


もちろん、複雑な現実について、こういう面もある、いや、こういう面もある、と言い出すときりがないし、だからだいたいみんなその場で適当に――自分に心地よいように――事態を単純化して暫定的な結論を出し(あるいは単にだれかから借用し)、それを自分の意見として持って安心しているところがあるだろう。


そういう意味では、どの意見が絶対に正しいとか間違ってるとかいうことは言えない。わたしは基本そういう考えなので、資格で食えるかどうかの議論に意味があるかどうか?といったテーマについても、特に強く意見するほどの執着はない(だからここでひとり言を言ってるだけにしてる)。


ただ、やりようによってはマーケットはあるものだ(客観的に「もうこの資格では飯は食えない」なんていう資格はなくって、たとえ厳しくっても、工夫次第、努力次第で、道は開ける)といった議論は、社労士に限らずそりゃ何についても言えるだろうけど。


でも、社労士の資格は現実に飯が食えない率が高いし、そういう具体的な記事を過去あちこちで見てきて、そちらのほうがより説得力があると感じているわたしには、正直、「どんな仕事でも工夫次第で顧客は開拓できる」的な根性主義的・精神論的主張だけだと、「まぁ気持ちはわかるけど…根拠が薄い、絵空事っぽいな」と感じられる。


限られた人生、ほとんど無数の選択肢があるなかで、何で飯を食うか?は重大な選択だが、それがなんで社労士でないといけないのか、そこが曖昧な人には、そういう無責任なガンバリズムはむしろ有害だと思う。


事実、資格試験があることで「受験」産業というマーケットができるわけで(各種学校や講座など)、そっちの(実務的というよりは)教育的マーケットは、資格試験勉強にどんどん人々を誘導することで大きくなる・潤う。出口はどうでもいいと言えばどうでもいい。とにかく、そちらの教育的マーケットでは常に「お客さま」を作る必要がある。


だから、業界は資格試験の存続を求めるだろうし、そちらの業界の人なら、「この資格を取ってもなかなか飯は食えない」などとはなかなか正直には言えないだろう。(もし、現役の社労士じゃなくって、社労士試験のための「先生」であることがメインの仕事ならば。)



こういうことは、一般の資格試験業界だけでなく、例えば大学院でもよくある構造だし(ポスドクの増殖)、小中高生の塾・予備校業界も同じことだろう。



ついでに書くと、わたしは昔、塾や予備校の存在に強い疑問を抱いていた頃、(実は今もそれは多少は名残としてあるけれど)、塾・予備校が大好きな人たちがごく当たり前のように次のようなことを言うのを聞いて、われながらナイーブにも、びっくり!したことがあった。


彼ら彼女ら曰く: 塾・予備校の生徒群はピラミッド構造をなしているもので、ほんとうにいい学校に入れるのはごく上のほうだけ。それはそういうものだからそれで構わない(仕方がない)。あとの大多数の子らは、ものにはならなくてもとにかく通ってくれて(親が)お金を払ってくれるからこそ、上層の生徒や塾・予備校そのもの(講師陣や事務員らの人件費やら諸経費)が金銭的に回って成り立つのだ、と。


(それはそういうものなんだろうけど、資本主義の社会だし。でも、それならそうだとハッキリ言ってほしいなという気が少しする。「君も○○大に入れる!」とか「偏差値○○アップ!」とか安易に宣伝して、綺麗事で釣って、あとは自己責任よ、というのではなんか詐欺っぽいというか…いや、こういうことを言うのが綺麗事なのかもしれんけど(笑)。




ともかく、わたしがそれでもあえて社労士の資格の勉強をしようと思い続けているのは、これまでも散々書いてきたようなことで、別に「食えるから」とは切り離している。(それなら別のことで修業するって。)


こういうスタンスの者からすれば、「社労士の資格を取っても食えない」というまっとうな議論に(何にでも当てはまるような精神論で)難癖をつけようとすること自体、かえっていかがわしいというか…いや、そこは、いったん正直に認めてしまってくださいよ、と思うのであった。