まずは旅の思い出から。

 

4月21日(日)雨の降る京都へ。

 

私たちが迎えられたのは最近リノベーションされたばかりだと思われる一軒家。

探索したくなるような造り。もとは仏具店だったようだ。

8人という人数のためか雨の中、断られ続けて、ようやく見つけたレストラン。楽しいひとときを過ごした。

 

5月1日(水)電車で姫路へ。この日も1日中雨。そのおかげで人は少なかった。

 

 

世界遺産、姫路城に怒られそうだけれど、私は近くの好古園↓のほうが好みだった。

 

雨に濡れた新緑や庭石には癒やしの効果があるような気がする。

 

 

5月2日(木)大阪。普段行く機会のない道頓堀へ。

 

 

 

 

 

これらは、友人にとっては旅程のごく一部。3週間近くにわたって、関東→関西→中国(地方)→関西を5人で移動した。写真だけ見ると、「楽しかった14年ぶりの日本」。

 

良い思い出だけが切り取られている。半年後か1年後か、もっと時間がかかるかもしれないけれど、きっと良い思い出になる。実際には喜怒哀楽に満ちた旅であったとしても…。

 

一緒に過ごしたのは京都と大阪の夜、姫路の1日だけだったけれど、たびたび友人の苛立ちを感じた。それがこちらに向かってくる場面もあった。平静を装いつつ緊張(笑)

 

不可解なことが起こると、原因を探そうとして頭が勝手に働き出す。で、友人が根っからのフランス人であったことを思い出した。フランス人というよりもフランス語話者。

 

というのも、旦那さんもその弟もアフリカ出身だけれど、フランス語話者であり、その言動は日本語話者のそれとは異なる。自由だ。個人主義だ。つまり「野生」なのである。

 

私の日本語レッスンを受けている人たちは、程度の差こそあれ、自分の文化や言語にしがみつきつつも日本語のルールに従っている。飼い慣らされている。言葉の力は侮れない。

 

友人も25年前に計2年間、日本に留学したことがある。今回、旅行前にブラッシュアップを兼ねて日本語レッスンを5回行った。その時に感じたのは、直接的な表現を好むこと。

 

敬語も回りくどい表現も知っているし、長い間、日本語を使っていなかった割には言葉を覚えている。それでも誤解は生じる。今回、店員さんの顔がこわばる場面が2回あった。

 

友人の言葉や態度に驚いているところへ私がへらへらした顔で間に入り、なんとか丸く収まった。そのたびに謝って、穏便に済ませばいいものをと思ってしまう。

 

苛立ちは伝染する。「フランス人」は単純なことを複雑にするし、苛立ちたいがために吹っかけているのでは?と「○○人論」に原因を探そうとしてしまう。

 

友人家族は3日に日本を発ち、無事に帰国したけれど、不可解をそのまま置いておくと後を引く。そこで、相手の感情の起伏を想像してみよう。揺れの中に何か見つかるか。