日本語レッスン3回目。友人相手のレッスンがやりにくい理由はいろいろある。だいぶ慣れてきたと思ったら残すところ1回。その後は日本(京都か兵庫か大阪)で再会する。

 

 

初回は互いに緊張していた。画面越しとはいえ顔を合わせるのは5年ぶりだったから。日本語レベルを探りながらの1時間だったから。私たちは30年近く仏語でやり取りしてきた。

 

日本語レッスンなのだから出来るだけ日本語を使わないと。でも、友人だし仏語のtutoyerに相当する口調で話さないと。でも、私は日本人の友人とは関西弁で話すし・・・。

 

共通語(標準語)とは語尾もアクセントも違う。「おはよう」も「ありがとう」も東京式アクセントをまねた時点でもはや自分ではない。友人の前では素の自分でいたい・・・。

 

緊張感と違和感が漂う初回を終え、その次は相手にレッスンをすっぽかされ、ある意味、肩の荷が下りた。雑談や説明を仏語で行うことでレッスンをコントロールしやすくした。

 

友人とのレッスンに限らず、緊張感、違和感、さらに不快感を取り除いていくのはこちらの役目。字が小さすぎて読めないと言われれば、画面一杯の特大サイズで対応する↓

 

複数のテキストから使える箇所を寄せ集めて(場面シラバス)、3技能(聞く、話す、読む)のバランスを考え、1時間で徐々にレベルが上がるように構成。通常のレッスンより手間がかかる。

 

初回のレッスンで相手の姿に圧倒されてしまったのは、その眼鏡姿を初めて見たからか。いかにも仕事ができる雰囲気を醸し出していたし、実際にできるんだと思う。

 

2回目はタジタジにならず、「ところで、今何歳だっけ?」と雑談を挟む余裕もできた。「47だけど、6月には48になる。」と聞き、長い年月が過ぎたのを恐ろしく思った。

 

それと同時にこんなに長く付き合いが続いているのを嬉しく思う。出会った時、相手は20歳、私は19歳だった。歳を重ねて、得たものもあれば、失ったものもある。例えば水分。

 

あの頃は12、3時間の飛行時間、コンタクトを装着したままだった(目よ、酷使してすまない)。今は地上にいても午後4時以降は目がしょぼしょぼするから眼鏡でないと無理。

 

2回目からは私も眼鏡を掛けてレッスンをしている。一方で歳を重ねても変わらないものもある。友人が声を上げて笑うのを見て、「そう、この笑い方だ。」と懐かしく思った。

 

その時点で気分が浮き立っている。相手を喜ばせること、楽しい雰囲気を作ることを優先させたくなる。どうしても友人には甘くなる。これでは、まるでボランティア活動だ。

 

すぐに役に立たない、厄介で面倒なことも教えるのがレッスン。それらを有益だと思わせ、できるだけ楽しく教える技量が求められる。料金を頂くのはそういうことだと思う。

 

数年前に日本人の友人から依頼を受けて、仏文法の復習に付き合った時に感じた気持ちに似ている。友人とのレッスンを成り立たせるのが難しいのはこの辺りにあると思う。

 

 

ところで、料金は支払われるかどうか分からないし、こちらからも敢えて聞かない。どちらにしても割り切って、長年の付き合いに感謝を込めてご奉仕しよう。