音楽通の夫のコレクションから音痴の私が選んだセレクション。次から次へと無心で作業をこなしたい時はこれを流す。仕事がはかどる。

 

ただし、人間を相手にしているので時には心が乱れる。それでもパソコンに向かわなければならない時は雅楽に身を委ねる。最近、出番が多かった。

 

それは後で書くとして、まずは2週間前に参加したシンポジウムについて忘れないうちに記しておこう。テーマは「日本で暮らす 生活の中で気づく文化の違い」だった。

 

「日本で暮らす」外国人は、家に一人いるし、日本語レッスンで外国人と話すのが私の仕事だから話題には事欠かない。でも、文化はオマケであって本題になることはない。

 

夫のように在日23年にもなれば「日本は○○、日本人は○○」といった型にはまった発言は避けるものだし、日本語レッスンは文化交流ではなく言語学習の場であるから。

 

でも、日本在住の外国人の本音は気になる。市の広報誌で見つけたそのイベントの詳細を確認すると、ゲストは小原ブラスさんだった。メディア全般に疎い私でも知っている。

 

 

自分ありきという考え方が印象に残った。例えば、外国人の子供たちの就学を支援する活動を行うのは、自分が安心して日本に住み続けるためと言い切る。

 

一見、何の脈略もないように思えるが、こういうロジックである。教育を受ける機会がない移民の子供たちが増えると、ゆくゆくは今のヨーロッパのような状況になる。

 

治安悪化が移民排斥へと向かい、(関西弁を流暢に操る)自分も見た目が外国人というだけで日本に居づらくなるということ。そんな社会にならないために自分ができることをする。

 

 

相手ではなく、自分が軸としてある。私も「誰かのために」というジメジメした精神が苦手なので、サッパリしたその考え方に好感を持った。

 

さらに、外国人が日本社会に入ってくることで日本人も解放されるという意見。私自身、長年、家庭でも職場でも実感してきたことである。

 

さっそく、図書館で著書を貸出予約した。

 

話をシンポジウムに戻して、トークセッションに続いてパネルディスカッションが行われた。

 

パネリストは、外国人は外国人でも、私があまり接点を持っていない国の出身者たちだった。興味が湧く。でも、文化の違いの指摘は特筆すべきものはなかった。

 

それは、この方たちの日本語レベルが非常に高く、こうして不満や疑問を大勢の前で発言したり、はたまた文化衝突を回避したりと、日本語を道具として使いこなしているから。

 

そうでない人たちは、この場にいない。その意見は届かない。必要なのは上辺の文化交流ではなくて、言語教育。外国人に寄り添うのではなく、自分ありきで考え続けたいと思う。

 

シンポジウムの後の交流会にも参加したが、準備していった名刺は結局交換せず、そそくさと帰ってきた。仲良くしましょう、交流しましょうという雰囲気では深く語り合えない。

 

やはり日本語の個人レッスンで外国人と話すほうが落ち着く。ここが私の居場所。ただし、冒頭の音楽にすがりたくなることもある。言語を通して物事を見てくれない人もいる。

 

ある晩、息子に「ちょっと聞いてよ。」と愚痴を聞いてもらい、翌日には出張中の夫にも連絡。ちなみに夫とこの学習者は同国人である。

 

簡単に書くと、料理の話をしていた時、相手がふと「日本のレストランは衛生面でどうかなと思う。時々、皿に汚れが残っている。」と言ったのだ。

 

仮に母国に比べて、日本が不衛生だとしても、その国の人の前で言うのはどうかなあと思う。敬意の欠如は、この人の日本語学習にも表れている。

 

 

今後は、文字学習をしない人へのレッスンはお断りしようと思う。自分の外国語学習に置き換えて、英語、仏語、中国語を片仮名で学ぶのは考えられないから。

 

翌週には頭を切り替え、レッスンで扱ったのは…。またしても「日本人は衛生観念が低い」と言われたものの、笑いながら反撃した。一つ成長。

 

同僚に教えてもらったという関西弁、「ほな!」と言って去って行った金髪の○○さん。残り2回。帰国したら、日本語をサッパリ忘れるだろう。おそらく残るのは主観に基づいた「日本、日本人論」だけ。

 

言葉を知らないと、丸いものがとがって見えて勘違いし、逆にとがっているものが丸く見えて怪我をしてしまう。だから、これからも私は言語を通して文化や社会を見ていきたいと思う。