仕事の愚痴。 溜め込んで、夜寝る前に吐き出していた。 聞き手は夫。 これがまたよく吸い取ってくれる掃除機みたいなもので、会ったこともない私の元同僚や上司のことを夫はよく知っている。

 

4年前に働き方を変えてから悩み事や相談事は増えたが、愚痴は減った。私の仕事は、外国人に日本語を教えることである。どこにも属していない。第三者を挟まない、サシの1時間だ。

 

会社等、組織を転々とし、20年後に辿り着いた場所がここだった。ホッとできる場所、元気になれる場所を相手と共有できればという思いでレッスンを提供している。

 

そもそも習い事に行くとき、誰もムカムカした気持ちで行こうとはしない。様々な感情を抱えていても週に1回か2回の習い事の時ぐらいは心穏やかでいたいものだ。

 

ところが、約一名、レッスンに愚痴を持ち込む人がいる。毎回ではないから画面に相手が現れたとき、即座に表情を読もうとする習慣がついた。

 

出だしの定番「最近どうですか。」が禁句だなんて。「忙しいです」に続く愚痴を言う隙を与えないように。こちらの作戦などお構いなく、愚痴は出口を求めて出る時には出るのだ。

 

「今は日本語レッスン中ですよ」と気付かせるために途中で「はい」「そうですか」等々、日本語で相槌を入れるものの効果はなく、私は時計をちらちら見るだけである。

 

相手が落ち着いたところで「大変ですね。(嫌なことは横に置いておいて)とりあえず日本語を勉強しましょうか。」と言い、5分、時には10分遅れのレッスンが開始する。

 

その一方で、日本在住の息子さんの影響を受け、大の日本びいきで、こんな文章を作る人。私自身、この方とのレッスンを毎回楽しみにしているのである。

 

ばんごはん は すし と きょうざ を たべました。あさひの ビール を のみました。よかったです。

  (原文ママ)

 

 

どうやら、この方には「内と外」という考えがないようだ。ご本人が言う「日本の穏やかさ」は、この仕切りによって保たれている一面もあると思うのだが、どうだろう。

 

今月の初めに、こんなことがあった。朝8時のレッスンに珍しく遅れて現れた相手は満面の笑みを浮かべていた。「会社から電話があったのよ。」と母語で愚痴が披露されることになった。

 

7分経過。その後、レッスンが始まったものの、日常から離れる1時間であるはずの日本語に集中できない。カタカナの読みでつまずくのだ。

 

愚痴を聞くだけならまだいいが、鬱憤の矛先が、こちらに向けられては困る。正確に言うと、こちらに向けられることはなく、ギリギリのところをかすめるのだ。

 

私の母語であり、商品でもある日本語。 カタカナや練習問題に当たるのは、店の商品をけなすようなものである。こちらとしても心穏やかではいられない。

 

気を取り直して、レッスンの最後に「コンサートはどうでしたか」と質問してみた。大好きなバンドのコンサートに夫婦で行くと聞いていたから。それが裏目に出た。

 

お住いの地方からパリへ上京(と言っていいのか)。会場に着くまでに移民キャンプのそばを通らなければならなかったらしい。

 

(自分たちの)娯楽と(移民・難民の)現実の間で複雑な気分になったそうで、大学時代まで過ごした街の変わりようを嘆いていた。外から見ていても住みにくそうなのは分かる。

 

その嘆きは社会問題へ向かい、そして日本との比較に形を変えた。コンサートの帰り、電車の中に不審者がいて、ひと騒動があったそうだ。

 

「日本だったら不審者を絶対電車に乗せない」と断言するのを聞いて、相手を黙らせるために、去年だったか電車内で起きた複数の事件について伝えてみた。

 

心穏やかに過ごしたいのであれば、話す内容、相手、状況を考えるために一呼吸置いてみてはどうだろう。その時に役立つのは「内と外」の仕切りだと思う。

 

何かと批判の対象になり、私自身も厄介者扱いしてきた「内と外」の文化が救世主になるかもしれない。ただし、あの国で実践するのは難しいだろう。

 

同国出身で、日本在住の別の学習者は「内と外」は一種の契約でお互いが穏やかに過ごせるならそれでいいと言っていた。

 

「静謐」のイメージ図ではなく、これも送られてきた写真。

○○(旦那さんの名前) は いなかで しゃしん を とりました。きのうはでした。🌨❄(原文ママ)

 

その翌週。いや、2日後だったかもしれない。「宿題を出してもいいですか」と聞くと、相手はまるで小学生のように「ウィーイ⤴(Ouiの歓喜版)」と頷いた。

 

20歳年上の相手に私は翻弄されている。Mさん、来年もよろしくお願いします。