約15分の面接が終わり、TCFを受験した理由を聞かれ、「現レベルを知るため、テコ入れするため、そしてDELF・DALFを受験するため」と答えた。

 

試験官から「あなたはDELFじゃなくて、DALFね」「ただしProduction écriteはテクニックが必要なのでレッスンを受けたほうがいい」と助言も頂いた。

 

オンラインで添削が受けられるのか質問すると「オンラインはやり取りに手間がかかるので対面のほうがいい」と添削する側の事情も聞けた。

 

ただし、DALFの対策講座は毎回開催されるわけではないらしい。理由は受験者が少ないから。そもそも日本でフランス語を学ぶ意味とは?

 

私の場合、フランス語圏の方々に日本語を教えるという「隙間産業」に参入というか、いつの間にか生徒の大半がフランス人になり、仕事の道具になっているけれど。

 

それはさておき、TCFを受験したことで次の目標が決まり、やるべきことも見えてきた。冬休みの間に計画を立てて、2023年の予定にフランス語学習もはめ込もうと思う。

 

ところで、この日は久しぶりに「フランス」の良さを感じた日でもあった。というのも、直近の日本語レッスンで「これだからフランス人は」と思うことが立て続けにあったのだ。

 

面接終了後の会話は学習アドバイスにとどまらず、「もしかして旦那さん知っているかも」といった個人的なことにまで及んだ。

 

夫より1年早く来日し、大阪でも働いていたらしいが、結局、接点はなかった。まぁ、私たち在日フランス人とほとんど付き合いはないから。

 

その後は、再び息子の話題へ。私、「母親」の役を演じるのが大の苦手で、しかも月並みな話だったので省略。それよりももっと懐かしい話があったのだ。

 

お礼を言って、教室を後にしようとすると、「もしかして京都のNOVAにいましたか?」と。「寺町で働いていた」という相手に「私は富小路の生徒でしたよ」。

 

大学4年の時に仏検準1級の面接対策として通い始めたのだった。本当はTCFの受験会場となった学校に登録したかったのだが、問い合わせた時点で対策講座が開始済みだった。

 

仏検の後は英語にシフトして、社会人になってからも8年ほど名古屋(藤が丘)や大阪(京橋、本町)でも駅前留学して、倒産する前にやめた。

 

3年ほど在籍した富小路校は奥行きがある構造で、Voice roomだったっけ?は四条通に面していて、祇園祭の山鉾巡行を上から眺めることもできた。

 

その後、名古屋、そして、大阪に引っ越して久しぶりに四条河原町界隈を歩いてみると、昔通った学校は寺町へ移転していた。面接官が教えていた時期と私が在籍していた時期はずれているからきっと人違いだ。

 

それでも、20年以上前の記憶が蘇り、面接後の会話も含めると、4時間半に及んだ試験の疲れも吹き飛び、すっかり真っ暗になった京都の街を歩く足取りも軽かった。

 

翌日の日本語レッスンでフランス人学習者に

 

「私、(日本人らしく?)試験の30分前、いえ、30分は早すぎると思い、28分前には会場に着いたのに試験官が現れたのは試験開始5分前だったんですよ。」

 

と伝え、

 

「電車の遅延を考え、試験開始の2時間前には京都入りし、会場近くのファストフード店で待機していたんです。」

 

とまでは言わなかったが、

 

「でも、久しぶりに『ゆるさ』というか『人間臭さ』を味わいましたよ。日本だとこうはいきませんからね。やっぱりフランスいいですね。」

 

と話したら、「試験開始5分後でなくて良かったですね。それに毎日(ルーズ)だったら大変ですよ。」と。確かに。今年の8月に3年ぶりに母国へ帰国し、現状を目の当たりにした人の言葉には真実味がある。

 

試験官との立ち話が終わり、Au revoir.と別れた後、階段の踊り場にこの冊子を見つけた。私にもこんな頃があったなあ。来年でフランス語を学び始めて28年目。まだまだ学習は続く。