誕生日にもらったを2か月も掛けて読み終えてから、さらに3か月。すっかり鮮度は落ちてしまいましたが、夏休みの読書感想文②として記しておきます。

 

 

「女性と小説」というテーマで講演を頼まれた著者が、今から100年近く前、1928年に女子学生たちへ向けて書いた評論。最終章に主張が集約されているように思いました。

 

以下、引用。

 

みなさんには、何としてでもお金を手に入れてほしいとわたしは願っています。そのお金で旅行をしたり、余暇を過ごしたり、世界の未来ないし過去に思いを馳せたり、本を読んで夢想したり、街角をぶらついたり、思索の糸を流れに深く垂らしてみてほしいのです。

(188ページ)

 

「思索の糸を流れに深く垂らす」という表現。「流れ」とは川の流れのことです。著者であるヴァージニア・ウルフが、その十数年後、川で自ら命を絶ってしまったのは皮肉です。

 

100年後を生きる者として、彼女がどんな思いで、二つの講演の原稿を評論としてまとめたのかを想像しながら読み進めました。

 

夫がこの本をくれた時、裏表紙に「フェミニズム」という言葉を見つけて、溜息が出ました。普段、見て見ぬふりをしている現実があぶり出されるのではないかと。

 

時々、著者の思考を追うのが難しくて、さらっとではなく、じっくり読んだのが、197ページに2か月も費やした理由です。

 

ひんやりしていた朝方、キッチンでお茶をすすりながら読んだのも良い思い出。あれから季節が進み、私の夏休みも今日で終わりです。

 

以下も引用箇所が多く、これが学校の読書感想文なら書き直しを命じられるでしょうが、急ぎ足で投稿してしまいます。

 

またしても、引用。

 

「現実」とは何でしょう?とても不規則なもの、とても頼りないものに思えます。粉塵の舞い上がる道路で見つかることも、街路に落ちている新聞の切れ端に見つかることも、陽を浴びたラッパスイセンに見つかることもあります。

 

(中略)

 

お金を稼いで自分ひとりの部屋をお持ちくださいと申し上げるとき、わたしはみなさんに〈現実〉を見据えて生きてくださいとお願いしています。〈現実〉を前にした人生は、それを本に書いてひとに知らせることができるかはともかく、活気あるものになるでしょう。

 

ここでわたしは終わりにしてもいいのですが、慣例によれば、およそスピーチというものは結びの言葉で締めくくらねばならないことになっています。

 

(中略)

 

しかし、そんなお説教は男性の方々にお任せしておけばいいでしょう。これまでもわたしよりはるかに雄弁にお説教してくれており、これからもそうでしょうから。よく自分の心中を思い返してみても、伴侶であれとか、同胞であれとか、世界をより高い目標へと導きなさいとか、そんなことを願う気高い感情はわたしにはありません。わたしが簡単に飾らず申し上げたいのは、何よりも自分自身でいることのほうが、はるかに大切だということです。他のひとたちに影響を与えようなどと夢見るのはやめてくださいと、高邁に聞こえる言い方が見つかればわたしはそう言いたい。事柄じたいについて考えてください。

(190-191ページ)

 

わたしは信じています。もしわたしたちがあと一世紀ほど生きたなら ― わたしは個々人の小さな別々の生のことではなく、本当の生、共通の生について語っています。あと一世紀ほど生きて、もし各々が年収五百ポンドと自分ひとりの部屋を持ったなら ―。もし自由を習慣とし、考えをそのまま書き表す勇気を持つことができたなら ―。もし共通の居室からしばし逃げ出して、人間をつねに他人との関係においてではなく〈現実〉との関連において眺め、空や木々それじたいをも眺めることができたなら ―。

 

(中略)

 

もし凭(もた)れかかる腕など現実には存在しないということ、ひとりで行かねばならないということ、わたしたちは男女の世界だけでなく〈現実〉世界とも関わりを持っているのだということを事実として受け入れるのなら ―。

(196-197ページ)

 

以上、長い引用終わり。

 

現実に戻り、2021年。一体いつになったら世界中で男女格差が解消されるのでしょうか。3月に世界経済フォーラムが「グローバル・ジェンダー・ギャップ・レポート2021」で見込み期間を発表しました。
 
新型コロナウイルスの世界的な大流行の影響により、2019年の99.5年から135.6年へと大幅に拡大したそうです。
(それまで地球が存在しているかどうか・・・。)
 
こういった数値は一体どういうデータをもとに算出されるのか分かりませんが、ヴァージニア・ウルフが願った「もしわたしたちがあと一世紀ほど生きたなら 」は叶わぬまま。
 
1世紀という長いスパンではありませんが、息子に小学生の頃から言い聞かせていたことがあります。
 
「○○が働く頃には男性が優遇される社会ではなくなっているから今までの倍の人と競争しなければならないよ」と。
 
これは私自身の願いだったのですが、早ければ5年後、遅くても10年後には社会人になる息子。社会は息子側の性に有利なままのようです。
 
男性側に有利と書きましたが、そういった働き方や生き方を望んでいない男性もいるはず。個性を性別という枠に嵌めようとすると、どうしても無理が生じると思うのです。
 
夏休みの読書感想文①で書いた不登校やイジメは複雑な問題だと思いますが、男は、女はこうあるべきという社会的規範が根っこにある場合もあるのでは。
 
それを取り除けば、ずいぶん住みやすい世の中になると今もなお信じています。日々、目に耳に入ってくる現実に時には絶望を感じながらも。
 

 

ところで、ヴァージニア・ウルフの代表作「ダロウェイ夫人」がモチーフになり、ウルフ自身も登場人物の一人として描かれている映画「めぐりあう時間たち」。
 
「自分ひとりに部屋 (原題:"A Room of One's Own")」を読んだのを機に久しぶりに借りてみました。好きな場面は20年近く前に映画館で見た時と同じです。
 
主演女優の一人、メリル・ストリープもインタビューの中で、周りから一番好きな場面だと言われると語っていたのが上の場面。
 
パーティー準備の手伝いに来た娘とベッドに腰かけ、寝転んで

 

I remember one morning...
getting up at dawn,
there was such a sense of possibility.
You know? That feeling? Hmm?
And I remember thinking to myself,
"So, this is the beginning of happiness.
This is where it starts.
And, of course, there will always be more."
It never occurred to me, it wasn't the beginning.
It was happiness.
It was the moment...
right then.
 
覚えてるわ ある朝
夜明けに目覚めた時
限りない可能性を感じたの
わかるかしら
心の中で思ったわ
「そうよ これが幸せの始まりなのね」
「この先 もっと幸せが訪れるんだわ」
でも違った
始まりではなかった
あれこそが幸せだった
あの瞬間こそが
幸せそのもの

 

引用終わり。これこそ「思索の糸を流れに深く垂らして」いたらウキが動き出す瞬間ではないでしょうか。
 
私は特別裕福な家に生まれたわけではありません。でも、思索する時間と場所はありました。
 
小学生から高校生までは自室で、大学生の時はワンルームマンションで、留学先でもベッドに寝そべって、考えていたこと。
 
社会人になって20年近くは思索する余裕もありませんでしたが、40前に再び自由に考え、書き記す場を見つけました。それがこのブログです。