「笑顔」について考えをまとめようと過去の文章を読んでいたら今年の元日の文章を見つけました。
正直なところ、この20年の目標は、欧米人のような所作、笑顔を身につけることだったのだから自業自得です。
不自然に口角を上げ、白い歯を見せる笑顔(欧米は欧米でも金がものを言う国特有の笑顔です)。今では苦手です。夫の国の人たちだって20年前はあんな笑い方をしなかったはず。
笑顔までコード化。理解できないものは異質なものとして排除、淘汰されていく世界。違いを認めて、互いを尊重できれば、共存できるはずなのに。
1年ほど前に既に書いていたのでした。
笑顔もコード化、標準化され、輸出される世の中。笑顔でも世界を支配したいのでしょうか。バービーとケンのような笑顔です。太ったり、皺が増えたりといったバリエーションはあるにしても。
消費社会や競争社会の洗礼を受けた人は人種にかかわらず、同じように笑うのでしょうか。白い歯を見せるために頑としてマスクを付けないのでしょうか。
白い歯を隠す、お歯黒こそが美だと捉えていた文化もあったというのに。お歯黒は日本だけでなく世界各地に存在していた風習なんだそうです。
ところで、私の卒業論文は、源氏物語に登場する絶世の不美人、「末摘花と笑いについて」という駄作でした。粗野や野暮という言葉が似合う、貴族社会にはふさわしくない人物です。
紫式部は美しいものではなく、現代風に可笑しいものとして「いとをかし」と描きつつも、この人物に愛着を持っていたのでは。笑い一つをとっても解釈の仕方は様々だと思います。
勉強も日本と世界の間を行ったり来たり、地に足がついていなかった大学時代。4年生になる前に休学して10か月ほど留学しました。
「笑い」で思い出すのは、現地で見た河瀨直美監督の「萌の朱雀」です。カンヌ国際映画祭の新人監督賞を史上最年少で受賞したとかで当時、話題になっていました。
滞在していた小都市でも映画が上映されると聞き、早速、日本人の友人と鑑賞。映画のあらすじも映像も大方忘れてしまったのですが、ある場面だけは鮮明に覚えています。
地元のご老人と思われる方々の表情が生き生きと撮影された場面。日本から遠く離れて数か月。私にとってはどこにでもいる田舎のお年寄りの素朴な笑顔で懐かしいものでした。
ところが、席からは、ざわめきに続いて、クスッという笑い声。見たこともないもの、理解できないものを恐れ、蔑むような態度を感じました。
映画館を出た後、友人に話したのかは忘れてしまいましたが、消化されずに20年経って初めてブログに記しました。夫とは数年前から「笑顔」について話しています。
そのせいか、ある朝、「これ読んでみて」と見せてくれたのが以下の文章です。原文で読みましたが、なにせ硬い文章なので図書館で和訳を借りて、該当箇所だけを写した後すぐに返却しました。
(前略)
その微笑は、微笑が必要だ、ということを意味しているだけなのである。それは、チェスター猫の微笑にやや似ている。つまり、感情がいっさい消え去ったのちもずっと微笑が顔に浮かんでいるのである。
(中略)
免疫としての微笑、広告としての微笑。つまり、「この国は善良であり、私は善良であり、われわれはきわめて善良である」ということを広告する微笑なのだ。
(中略)
あなたが率直であり、純真であることを示すために微笑しなさい。何も言うことがないのであれば微笑しなさい。とりわけ、何も言うことがないということ、あるいは他の人びとのことには関心がないということを隠してはならない。
あなた方の微笑のうちに含まれるこの空白や無関心を表にあらわしなさい。他の人びとにたいしてこの空白や無関心を贈りなさい。ゼロ度の喜びや楽しみで顔を輝かせなさい。
微笑しなさい。微笑しなさい・・・。アイデンティティがない代わりに、アメリカ人は見事な歯ならびをしているのだ。
最後に、15年ほど前の話ですが、欧米人の同僚が帰国する前、最終勤務日のランチで日本の印象を聞いたことがあります。
街も人も明るい、元気
という意外な返事でした。日本に2年滞在していたのに覚えた言葉は「すごい」「大丈夫?」程度。ただし、昼休憩は毎日、日本人エンジニア達に囲まれて外食し、そこに事務の私も便乗していました。
彼は言葉が通じなくても笑顔を交わすことで日本人の心を読み取っていたのかもしれません。時に、何を考えているのか分からないと言われる笑顔。実は、旺盛な好奇心をはにかみで隠した笑顔。
これが自分のアイデンティティだと信じて、これからも忘れずに大切にしていきたいと思っています。