最近、よく聞く言葉。以前から存在していましたが、ハエのようにブンブン飛び回ると、気が散ります。
「グローバル・スタンダード」
自治体によって対応が異なるかもしれませんが、2月末以降、子供が受けた学校教育を見てきて、入学時期を変えるかどうか議論する前にやることがあるのでは?と思います。
例えば、「家庭における通信環境に関するアンケート」を、3か月近く経った今ではなく、2月末に休校になった時点で実施するとか。
教育委員会から学習動画が公開されたのが4月20日。初回は数学2コマ、それに英語指導員によって作成された簡単な動画のみで、結局、紙媒体の課題が配られることになったのが4月23日。
組織が大き過ぎると、身動きが取りにくいのでしょうか。外枠だけ頑丈で中身が脆いと言われても仕方がありませんね。
ところで、英語圏の方にも日本語レッスンを行うようになり、カタカナ語を見ると、和製英語かどうか調べる癖がつきました。
Wikipediaによると
グローバル・スタンダードは、国際標準から派生して生まれた言葉であり、比喩的な表現である。「グローバル・スタンダード」という言葉が、日本で多用されるようになったのは1997年(平成9年)以降であり、日本国外ではあまり使用されない和製英語といわれている。
「グローバル」が何かはさておき、「スタンダード」、「標準」という言葉が使われるとき、モデルがあるわけで、それを決めるのは支配的な立場にいる方々でしょう。
標準語、標準服(制服の別名)、標準世帯(死語でしょうか?)、等々。
グローバル・スタンダードについて言えば、世界の経済を動かしている(と豪語する)方々がモデルになっているのでしょうか。
以前にも書きましたが、定義上は、誰もが羨む環境にいる人たち。条件が揃っているので、他に望むことがないのか、それとも、さらに欲しがるのか。
経済の持続可能な成長を売り文句にして、富と名声をかき集めることを人生の目標に定める人たちもいるようですね。中身が空っぽのままでいるか、それとも、他の基準を探し求めるかは本人次第。
他の基準(文化や言語等)を見ようともしない方々が作る世界標準を私はどうも信じられません。
今回の世界的な騒動を見て、各国がそれぞれ対策を講じるなか、世界標準とされる国々での失策が目立ちます。
このような状況で、「グローバル・スタンダード」という言葉を聞いても、何の説得力もありません。
とりわけ、この数か月間、言葉に踊らされることなく、自分で判断していきたいという思いを強くしたところなのに。
私にとっては、まず自分という基準があり、他者、他文化、他言語等と触れ合うことで、新しいものを取り入れていくのが理想的な態度です。