世の中には全く口を利かない父と娘もいるそうですが、私は自営業の父の背中を見て育ちました。工場(こうば)と呼んでいた会社は家の隣にあり、朝晩、食卓に家族が揃うのが日常風景でした。

 

私は父の横に座り、学校の出来事を話したり、人生観を聞いたりして幼い頃から、たくさんのことを吸収しました。ついでにタバコの煙もたっぷりと。

 

母も会計を担当していたので、家の中では仕事の話が飛び交っていました。子供は意外と大人の話を聞いているもので、両親が売上げを嘆くと、大袈裟に解釈して、一家で橋の下に住む夢を見たこともありました。

 

和装業を営んでいた父の取引先といえば京都。週一回、車で営業回り。家に戻って来て「取引先で、お父さんモテモテ」とふざけてみても、毎回、真剣勝負であったのは子供心にも分かりました。

 

中卒で社会に出て、21歳で事業を始めた父のことを尊敬していましたが、起伏の激しい人生を目の当たりにして、私は勉強して、勤め人になろうと誓いました。

 

父は勉強が苦手だったのではなく、農家の7人兄弟の下から2番目に生まれ、親から期待されることもなく、進学せずに社会に出ることを自ら選んだのです。

 

小学校の校長まで上り詰めた長兄も、確かに立派だとは思いますが、どちらの伝記を読みたいかと聞かれたら、間違いなく、七転び八起きの人生です。

 

染織や乾燥の機械を自作したり、毎晩、新しいデザインを考えたり、とにかく研究熱心だったのをよく覚えています。そんな父も春には75歳。

 

三連休の中日、様子を確認するために、とんぼ返りしました。ヘルニアを患う後ろ姿は頼りないものの、朝から40分歩いてきたと自慢げ。変わらぬ口調にも一安心しました。

 

ネットで見つけた情報をもとに、リハビリにも取り組んでいるそう。内容を聞けば、まるでピラティスです。その由来(傷病兵のリハビリのために編み出された)を説明し、勧めました。次回会う時には、ピラティス仲間になっているかどうか。

 

父は、後継ぎとして姉からも私からも逃げられました。冗談まじりに、外国人夫に仕事を持ちかけたり、ゆくゆくは海外に進出したいと口にしたり、夢を追い続けてきた父。

 

今は、地域で染め体験のボランティアに勤しんでいます。「5月の連休にでも、実演の様子を見に行ってもいい?」と言うと、つぶらな瞳がキラリと光りました。

 

前から考えていたことです。元気なうちに父娘で何か出来ればなぁという思いは頭の片隅にあります。それが一番の親孝行になると思っています。

 

「お父さんは、毎日が試験や」が父の口癖でした。学校の試験は受けなくても、50年以上に渡り、社会で試験を受け続けてきたということです。

 

ガラケーからスマホに変えた70代。早速、メールが届き、慣れたらLINEを送るそうです。私は、三連休の最終日にパソコンを買ったばかり。

 

今まで夫のMacを使ってきたのですが、今後、働き方を変えるとなると、仕事道具が必要になります。これからの仕事を考えて、汎用性の高いWindowsを購入することに決めました。


とりあえず、購入した日、箱からパソコンを取り出し、立ち上げ、ウィルス対策ソフトをインストール。それだけでも上出来です。

 

 

私の相棒。どうぞよろしく。旅行直後の思わぬ出費です。活用しなければと思いつつ、この文章も使い勝手の良いMacで打っています。

 

我が家にヘルプデスクはいませんから、これからはパソコンが苦手なんて言ってられません。そして、不思議なことに、プリンターから一枚印刷するにも心構えが違うのです。

 

今までは、毎月、いくら給料が振り込まれるか分かっていました。これからは、夫の給料+私の取ってくる仕事です。

 

「取ってくる」なんて偉そうに。50数年前、父が京都の呉服屋に門前払いされたようにゼロからのスタートです。一つ違うのは、身一つで飛び込んだ父に対し、私には、お勉強と資格が必要でした。

 

10年後、振り返った時、きっと正解だったと思えるはず。そして、20年後には大正解に。その頃には、夫が私の仕事の相棒になっている、というか、そのつもりです。私の頭の中の算段です。

 

私たちは、おそらく70になっても働かなければならない世代。好きな仕事に巡り会えたのならともかく、騙し騙しお勤めするぐらいなら、今から将来の下地を作っておこうという単純な考えです。

 

すべて自分で決めたこと。「女」に二言はありません。父の影響を多分に受けている私は、元来、「女」ではなく、「OL」なんかに向いていなかったんだと今更ながら思うのです。