小学校に入学して5日目。友達と寄り道をして帰宅すると、家の中は薄暗い。「お母さん」と呼んでも返事がない。

 

床の間に日本人形が飾られ、怖くて一人では入れなかった和室。襖を開けて、覗くことすらできない。

 

同じ敷地にある父の会社。人見知りの私には、父を呼びに行く勇気はなかった。居間の机にメモが置いてあったような気もする。誰宛てだったか分からない。

 

しーんとした家の中で、どれくらい待ったのか。小2の姉が帰宅した。閉ざされた和室に足を踏み入れるや否や、父を呼びに飛んで行った姉。

 

「絶対、見たらあかんで」と言われたような気もする。私は見なかったんだと思う。記憶にある母の顔は、棺桶に眠る穏やかな顔だったから。

 

はっきり覚えているのは、泣き崩れ、受話器も上げられない父に代わり、叔父が救急車を呼んだこと。近づいてくる救急車のサイレンが間延びして聞こえたこと。のんびり運転しているように思えたのは、気のせいか。

 

そして、素朴な疑問を投げ掛けるように「お父さんが殺したん?」と父に尋ねたことも覚えている。子供は、残酷な生き物だと自分でも思う。

 

その場で、姉は泣いたかもしれないが、私は泣かなかったと思う。葬式には、小学校の友達がたくさん来てくれた。ニヤニヤしていたと、後から姉に怒られた。

 

母の死後、父の提案で、早朝ジョギングを始めた。夜、寝る場所は、子供部屋から両親の寝室に変わった。

 

ジョギングは生前、母がしていたし、3人で寝るようになったのも父の計らいか、父も淋しかったんだと思う。

 

子供部屋に独りきりでなくても、寝室に母の幽霊が出るんじゃないかと怯えていたのを覚えている。

 

夏休みのプール開放で会った時、手紙をくれた女性。秋には母親になった。私たちを育てるために、父が知人を通じて紹介してもらった女性。私はすぐに懐いた。

 

妻への償いか、父は立派な仏壇を購入し、それは亡くなった場所に備え付けられた。毎年、4月が来ると、お経を聞きながら、神妙な面持ちを保った。うつらうつらしてしまったけれど。

 

近所の人に何があったのか聞かれ、ありのまま話すと、哀れみを誘えることを知った。それ以来、自分を悲劇のヒロインに仕立てるために、母の死を使うこともあった。でも、そのうち飽きてしまった。

 

それでも、小学校高学年になるころ、考えたことがある。生みの母と過ごした時間より、育ての母と過ごす時間が長くなるんだと。何とも言えない気持ちになったのを覚えている。

 

 

以上が、賞味期限切れ、着色料なしの記憶です。

 

前回、身内の死を客観的に書くと、勝手に宣言しましたが、なかなか難しいですね。

 

世間的に見れば、母の行動は非難されるものでしょうか。第一発見者が我が子になるかもしれないのにと。そこまで追い込まれていたのだと思います。

 

生命力がゼロかマイナスの状態で、計画を立て、実行するには、相当の気力と体力が求められると想像します。残された僅かな生命力を振り絞って、最期は、それを自分のために使ったとも考えられます。

 

普段から、そして、ブログでも気を付けているのは「べき」を使わず、断定もしないこと。という理由から、母は「あれ」だったそうです。その、上がったり、下がったりする、あれ。

 

母と姉とバスに乗ったり、歩いたりという断片的な記憶があるのは、姉曰く、通院に付き添っていたそうです。父も姉も私も喜んだピカピカで広々とした家。引越は母には心機一転とならず、病状を悪化させたのかもしれません。

 

保育園に通っていたころ、朝は、母が送ってくれ、夕方には、叔母さんが迎えに来てくれました。家に帰ると、居間には、布団に横になっている母の姿。寝ている目を開いてみたり、馬乗りをせがんでみたり。

 

体調のいい日は、朝方か夕方にジョギングをしていた母。補助輪付きの自転車で並走していた私。自力で治そうとしていたのか、薬を飲んでいなかったようです。亡くなった後に大量の薬が見つかったと父から聞きました。

 

6歳になって1ヶ月後に母を亡くした私は、その死を引きずることなく、ここまで来ました。

 

8歳を目前にして母を亡くした姉は、未だに引きずっています。35年も昔のことなのに。

 

2年近くある年の差がそうさせるのか。それとも、最期の姿を見たからか。よく分かりません。


周りのために生きようとする姉。私は、それを偽善と呼びます。本当は、自分が一番のくせに。

 

自分の人生に目を背けているように思うから。

 

私は、自分のために生きています。夫のためでも息子のためでも父や2人の母のためでもありません。

 

 

母の写真を実家に預けたと言っていた父。30代になってから、その在りかを尋ねてみました。

 

「処分した」なんて酷いなぁと思いましたが、私も同じ立場だったらと考えると、一方的に父を責めることもできませんでした。

 

家族ぐるみで付き合いのあった叔父に手紙を書き、送られてきた数枚の写真。しかめっ面か、つまらなそうな顔ばかり。やっぱり、幸せではなかったのかと、すぐに封筒に戻してしまいました。

 

今年の5月。母の実家を訪ねたとき、姉が見せてくれた数枚の写真。私より少し前に、姉もまた叔父から入手していたのでした。写真の中の母を見て、ホッとしました。

 

穏やかで、幸せそうな笑顔を見つけたから。30代でくすぶってしまった母。その日常には、小さくても、喜びや楽しみもあったことを願うばかり。

 

早くに肉親を亡くしたのに、自分の死を意識したのは、30を過ぎてからです。いつからか、彼女が生きられなかった分、私が生きてやろうと思うようになりました。

 

矛盾しているようですが、自分のために生きられなかった母のためにも、私は自分のために生きる、という意味です。

 

負けず嫌いで、田舎から飛び出したかったという母。姉も私も、その想いを受け継いでいることも分かりました。

 

自分の人生を歩もうとして圧力に負けたのか、自分を押さえ周りに合わせて調子を崩したのか、今となっては分かりません。

 

いろいろな生き方が認められる世の中になるように切に願っています。これを更新したら頭を切り替えて勉強します。半年後の新しい人生に向けて。