先週、「大人の世界のイジメ」について書きました。傍観者の立場から。
続けざまでは、気分が暗くなると思い、間を空けました。
子供の世界のイジメ
思春期において、単独行動を好む人間は、格好の標的になるものです。身をもって感じたこと。
出来るだけ楽しく書くので興味本位で読んでください。
25年ほど前の話。面白いほど良く覚えています。
勝手にカバンの中を探られたこと。
不運にも、筆箱に「バレンタインデーに〇〇先輩に告白する!」というメモを忍ばせていました。
教室に戻ると、Iさんの手下たちが、慌てて私のカバンをもとに戻しているところでした。
耳に響く、あざ笑い。屈辱的でした。
でも負けませんでした。友達にチョコレート作りを手伝ってもらい、卒業目前の先輩に渡しました。
携帯電話のなかった時代。姉の学年の連絡網(当時はありました)を頼りに自宅に電話をかけ、図書館前に呼び出して。
こんなこともありました。
体育の授業が自習になり、クラスの女子でバレーボールをしていたとき
Iさんが笑いながら私にボールを投げつけ始め、次第に私一人を標的にしたドッジボールになりました。
先生の前では優等生で通っていたIさん。止める人は誰もいません。
助けを求めるように、クラスメイトの顔を見渡しました。
「あの子も笑っている」「この子まで」
あっちもこっちも、せせら笑う顔ばかり。
仕方ありません。私、反撃することも、泣くこともなく、ヘラヘラ笑っていたのですから。
暴力を受けたとき笑うしかないこともあります。笑っているからってイジメを受け入れている訳ではないのです。
ボールをぶつけるという行為を客観的にみれば、暴力以外の何ものでもないのは一目瞭然です。
傷は心にしっかり刻まれています。
40を過ぎた今でも、初対面の相手と話しながら
この人は、中学時代、「イジメた側」「イジメられた側」「傍観者」のどれだったんだろう
と観察する変な癖がついてしまいました。「イジメた側」だからと言って、仲良くしないという訳ではありませんが。
イジメっ子との腐れ縁に続く
Charlotte Pardiの絵本挿絵より
美術館と庭園が気に入り、毎年、通っている「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」。手に取った1枚がこの挿絵でした。