関ケ原めぐり【西軍・島津義弘陣跡】 | 仁王(旧)Official Blog 仁王軍本陣

関ケ原めぐり【西軍・島津義弘陣跡】


みなさま、こんにちばん
和心を詠って伝える伝道師、です(^o^)人(^_^)

今ある私達の平穏な暮らしが、過去に散っていった、
数多くの犠牲の上に成り立っているということを常に忘れず、
その時代を全力で生き抜いた方々に、尊敬と感謝をこめて
手を合わせながら、がめぐる歴史ゆかりの地。

ただ今、関ケ原の陣跡めぐりをお届け中です★

前回は、決戦地でした。
今回は、西軍・島津義弘陣跡です。

島津義弘3 島津義弘2

もともと、家康から上杉征伐の要請を受け、
薩摩(鹿児島)からはるばるやってきた島津義弘(しまづ よしひろ)でしたが、
東軍の連絡の不行き届きが原因で、
東軍としての戦意を喪失し、仕方なく西軍に属したといいます。

というのも、東軍の援軍として伏見城に訪れた際、
城を守る徳川家臣・鳥居元忠(とりい もとただ)に敵だと勘違いされ、
入城を拒まれてしまったのです。

かといって、三成の意見に賛同したわけでもなく、
また、本国でのお家騒動によって兵を送ってもらえず
少数の軍勢だった事により、三成から軽視されていたりで、
義弘本人としては、かなり不本意な戦いだったそうです。

こういった経緯で西軍に属していた島津隊は、
関ヶ原合戦当日、三成の命に従う事もなければ、
これといって率先して戦う事もなかったといいます。

それでも、優勢な東軍に寝返る事もなく、
西軍の大敗を目の当たりにした義弘は、
薩摩隼人の意地を見せつけるがごとく、驚きの行動に出ます。


背後に退いては島津の名を汚すー。


それならばと、義弘は正々堂々と関ケ原の中央を駆け抜けると、
東軍大将の家康の本陣に突入する勢いで猛突進していきます。

島津義弘1

この時、家康を守る為に立ちはだかったのが、
徳川四天王である井伊直政本多忠勝でした。

島津隊中央突破は激戦となり(烏頭坂の退却戦)
義弘の甥である島津豊久(しまづ とよひさ)は、
義弘の本隊を守るべく奮戦し、本多隊に討ち取られ、

家臣・阿多盛淳(あた もりあつ)は、
義弘の身代わりとなり討ち死にしてしまいます。

こうしてなんとか敵中突破を成功させた義弘でしたが、
はじめ300余いた軍勢も、
無事に薩摩に帰還出来たのはわずか80数名だったと言います。

しかし、義弘がとったこの行動は、
島津の家を、島津の名を、
後世まで語り継がれるほどの輝かしいものにしたのです。

島津義弘4


次回は、義弘敵中突破を成功させる為に命を張った甥、
西軍・島津豊久のお墓です。







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