それから、彼の仕事が始まった。
ヴィンセントバンクの正面入口が望める、屋外のポイントを探し、入口をやや左斜め下に捉えることが出来る、斜向かいのビルの屋上に決めた。
自宅に戻り、シャワーを浴び、バッグに携帯食とミネラルウォーターとシートを詰め、おむつを履き(みっともないが最大の必需品である)、最後に入念に手入れを施した愛用の銃、ワイルダーCS7を分解してギターケースに収め、部屋を後にした。
屋上のポイントに到着すると、シートを敷き、銃を組み立て、バッグを置いてその上に銃を乗せ、シートの上にうつぶせになり、スコープを覗いた。
丸く切り取られた世界が見える。この瞬間から、彼はそのオッドアイで二つの世界を見る。右の目でスコープの中を。左の目で周囲を見るのだ。
ボルトアクションのレバーをゆっくり引く。鈍い金属音と共に、薬室に弾丸が送られた。
彼は待っていた。待つことが彼の仕事だった。
何のために待っているのかと聞かれれば、それはただ、男を一人消すためだった。ただそのためだけに、彼はこうして同じ姿勢のまま、20時間以上待ち続けている。
昨日の夜ははずれだった。しかし標的は、過去夜に銀行を訪れた例もある。彼は姿勢を崩しはしなかった。しかし標的は現れなかった。それでも彼は待った。
たった一瞬、この指を動かすためだけに、彼は待っていた。
と、入口の前が慌しくなった。数名の男が何やら列を作っている。どうやらチンピラの勘は当たったようだ。
やがて一台の真っ黒な高級車が入口前に着いた。取引先の社長ものだろう。標的が外まで出てくるかは賭けだった。彼は全神経を丸い世界に注ぐ。入口と車の間は3mもない。チャンスは1秒あるかないか。否、出てこなければ0だ。
が、次の瞬間、
タァーーーーン…………。
丸い世界の中で、男が頭から血を吹いて死んだ。彼の仕事は終わった。
彼は荷物をバッグに押し込め、手早く銃を分解してギターケースに入れ、屋上を後にしようと立ち上がり、踵を返し……
ゾゾワァッ!
一瞬、しかし確実に、彼は感じた。人の気配…否、殺気と呼べるものだった。骨の髄が凍ったような寒気だった。
それは彼が今まで感じたことが無いほど強いものだった。隠すことも繕うこともしない、むき出しの殺意だった。
彼は一刻も早くその場を立ち去るべきだった。それが狙撃手のセオリーだった。だが彼はそこから動けなかった。それほどまでにその殺気は強く濃厚だった。
ようやく彼はおずおずと後ろを振り返る。当然のようにそこには誰もおらず、下では人が大騒ぎしていた。
気のせいだ、引き上げよう。
彼は自分に言い聞かせ、屋上を後にした。