翌日の新聞に、彼の仕事の成果が小さく載っていた。騒ぎを長引かせて株にでも影響されたら困るという上層部の人間が、新聞社に金でも掴ませて記事を縮小したのだろう。
彼はいつものカフェでその新聞を読みながら、アイスカフェオレを啜っていた。自分につながるようなことは載っていない。いつもそうなのだが、彼は一応それを確認する癖があった。
今回もまあまあの稼ぎがあった。少し休暇を取って海にでも行くか。
そんなことを考えるのも癖だった。
しかし、
ゾゾワァッ!
彼は凍りついた。まただ、またあの殺気だ。誰だ?どこから…!?
彼は凍りついた腕を必死に動かし、新聞を下ろした。彼の向かいの椅子に、絶世と呼んでもまだ足りぬほどの美女が座っていた。
馬鹿な!いつの間に…?気配は全く感じなかったはずだ。彼は女の目を、甘い刃のような目を見たまま、微動だに出来なかった。
しかもこの女、どこかで…。
やがて女は人懐っこい笑顔で微笑み。
「お時間いただいてもよろしいかしら?ミスター」
と言った。いつの間にか、殺気は消えていた。
「あ…あんたは…?」
「あら、これは失礼。私はアテナ。アテナ・モスコ・ミュールよ。よろしく」
「…何者だ?」
「会社の社長をしてる…いいえ、する予定よ」
「なぜ俺を…?」
「お気に障ったならごめんなさいね?ちょっと前から友達に頼んで調べてもらったの。面白い経歴よね?」
彼は全身を強張らせ、女の一挙一動に警戒した。ただの女じゃない。彼の勘が叫んでいた。
「何の用…だ?」
「んー、強いて言えばスカウトかな。アナタ、私の会社に来ない?」
思いがけない言葉に、彼は拍子抜けした。
「な…なんだって?」
「だからぁ、私の会社に来ないかって。言ったでしょう?私もうすぐ会社を作る…予定だったの。昨日融資元に決めてた銀行に行ったら、支店長さんが死んじゃって、今頓挫してるんだけどね」
やっと思い出した。この女は昨日、標的に会いに来た女社長だ。ということはまさか…。
「あの時…俺に気づいていたのか?」
「…んーどうかしら?支店長さんの頭に残った入射口から推測して、あのへんかなーて思ったんだけど。で、すぐ部下に言ってそのビルを張らせて、出てきた人間にあたりをつけて調べてみたら、あなたが当たったってわけ.。おかげで狙撃の腕も見られたわ」
傍から見れば、美男美女のカップルがこれからのデートコースを相談しているように見えたであろう。それほどまでに二人は周囲に溶け込みつつ、その実とんでもない会話をしていた。
女は時折少女のようなあどけなさで話しているが、その眼はプロ…否、それ以上のものだった。
「驚いたな。目の前で人が死んだってのに、冷静にそんな事考えてたのかアンタ」
「まぁね。人が死ぬ所には多少立ち会ってるし」
「軍人?」
「元、ね。それよりどうかしら?裏社会でチマチマ稼ぐのもいいけど、根を下ろしてみない?うちならおおっぴらにいろんなシチュエーションで撃てるし、あなたならすぐにトップスナイパーになれると思うわ」
女は会社の事業内容について語らなかったが、およそ察しがついた。あれほどの殺気が放てる女が、退役後にでかい金を動かして、自分のような人間を誘ってやるような仕事…。
「ひとつ、気にかかったんだけどさ」
「何かしら?」
「すぐにトップになれる、って言ったね?つまり、今俺はトップじゃないと?」
彼はまっすぐ女の目を見た。女はにやりと笑った。
「そうね、まだまだ腕は荒いわ。まず狙撃ポイントのセレクト。あの人は入口を日によって変えてたし、あの時外まで私を迎えに出たのは偶然よ?もしあのまま永遠に正面玄関を使わなかったらどうするつもりだったの?それにあなたがいたあのビルは、屋上から出口まで一本道だったそうじゃない?万一屋上にいる姿を見られたら、どうやって逃げるつもりだったのかしら?それに、あんな中年相手にワイルダーCS7なんてセレクトするのはどうかと思うわね。口径は大きいけど銃声も大きいし無駄な破壊が多い。銃身は大きくて組み立ても煩雑、咄嗟の時に逃げにくくなる。大した距離は無かったんだし、もうちょっと大人しい銃にすべきだったんじゃなくって?ねぇ坊や?」
一気に捲し立てられて、彼はぐうの音も出なかった。全く女の言う通りだった。
「あなた同様、まだ声をかけてる段階だけど、うちにはとんでもないつわものが揃う予定なの。ほぼ確定って言っていいわ」
「誰だ?」
「んー守秘義務があるんだけどー…北半球最強の准将とか、黒獅子さんとか」
「まっ!!」
思わず彼は立ち上がった。周囲の客がこちらを見た。彼は気まずそうに座りなおした。
「お、おいアンタ。その名前出すってことは素人じゃないよな?与太でその名前使ったらどうなるか…」
「知ってるわよ?与太じゃないから出すの。ちなみに准将は黒獅子さんの戦友で、私はその教え子」
彼は白紙のような顔をしていた。信じられない話であった。だが嘘やブラフではない。女の出した名前は、こんな取引の材料で気安く出してはならない名前だった。
女は笑みを浮かべながら続ける。
「どう?そんな人たちと一緒に仕事をして見たくはない?久しぶりに観測手をつけて撃てるだろうし、戦場で撃つ事もあるわ。今の仕事より稼ぎが少し劣るかもしれないけど、会社勤めも悪くなくってよ?」
女は彼を見つめた。彼は冷や汗が出るのを感じた。この女、いくつの顔を持っているんだ。
さっきは少女のような顔で自分のコネクションを自慢し、その前は切るような目で彼の仕事の粗を指摘していた。そして恐らくその前は、獣のように気配を完全に消して彼の前に座り、新聞の向こうからメデューサのような目で彼を睨んでいたのだろう。直接見ていたら石になっていたに違いない。
そして今はサキュバスのような目で、彼を誘っている。
「…もし断ったら?」
「警察署にあるあなたに関する資料が増えるかもね」
彼は笑った。役者が違いすぎて駆け引きをする気にもなれない。
「OK、いつ出社すりゃいいんだい?ボス」
「今のところ未定よ。あなたのお陰でお金の目処が立ってないの」
「そりゃすまない。お詫びにいい銀行紹介するぜ。今夜10時頃に、9番街のムーラン・ノワールってクラブに行ってみな。ハゲ狸が女5人くらいと遊んでる。その写真を撮ってパブロバンクに行けば、利息サービスしてくれんじゃね?」
「あらー、いいのかしらそんな情報漏らして?」
「仕事の邪魔しちまったお詫びだよ。昔キャンセルになった依頼があってね。奴が標的だった。依頼人は前の奥さんだったよ」
彼はそう言いながらペンを取り出し、、カフェオレの乗っていたコースターに番号を書いた。
「俺の番号だ。勤め先が決まったら連絡してくれ」
彼は立ち上がり、店を後にした。
それからさらに二週間が過ぎた。あれ以来仕事は来ていない。彼は自室のソファに寝そべって、TVで野球観戦をしていた。
電話が鳴った。三回コールして切れた。
そういえば「マスター」には転職の話をしていなかった。一本電話を入れるべきかと思ったが、ここで無視しておけば、彼が死んだか仕事をやめたと思ってくれるだろう。彼はTVを見続けた。
電話が鳴った。今度は二回コールして切れた。
彼は思わず起き上がった。なぜ二回で?今までそんなことは…。
電話がまた鳴った。彼はすぐに出た。
「ハロー?」
『やっぱりいたじゃなーい』
あの女社長だった。
「アンタか…妙なかけ方して来ないでくれ」
『んー合図っぽくていいじゃない?それより、あなたのおかげでやっと仕事が始められそうなの。すぐ来られるシルバー?』
「シルバー?」
『ああ、仕事の性質でコードネームで呼ぶことにしてるの。以後あなたの呼称はシルバー・ブレット。素敵でしょ?』
「あぁ、まぁな…」
色々複雑な名前だったが、この女に抗議するのは疲れそうなのでやめた。
『じゃ、グリプスアベニューのパレットスクウェアに来て。迎えを遣すわ』
「ああ、すぐ行く」
彼は受話器を置いた。と、そこで強い既視感に囚われた。なぜ?前にもこんなことが…。
今度から二回にするか。
彼はキッチンに飛び込み、引き出しからあの女が持っていたアイスピックを取り出した。その柄には真っ赤なキスマークがついており、引き出しの中に口紅でこう書かれていた。
Shall you killed me? boy (私を殺せたかしら?坊や)
「あ…あの女……!?」
彼は今まで感じたことの無い寒気を覚え、そこから逃げるように部屋を出た。
(了)