「ようドクター」
 帰り道、駅の前にこの田舎の風景に似つかわしくない、鋭角的な車が止まっていた。
 傍らにいた男が手を上げて彼女を呼んだ。あの野営地で会った青年だった。
「どうしてここが…?」
「ん?美味いパン屋の噂をたどってきたら着いた」
 白々しい物言いだったが、彼女は追及しなかった。
「何か御用?」
「ドライブしない?次の電車二時間も後だってさ」
 彼女は仕方なさそうに微笑み、助手席に座った。


「軍医、辞めたんだって?」
 車を運転しながら、開口一番青年が言った。
「お耳が早いのね、長いだけじゃなくて」
「生まれつきだっての。でもなんで辞めたの?」
「この旅に時間がかかるのはわかってたし、それにもう…いいかなって思ったの」
「野営地のことでか」
 沈黙。それが答えだった。
「ああそうだドクター、うちの社長がさ、あんたに会いたがってるんだけど」
「社長?」
「ああ、言ってなかったっけ?俺軍人じゃなくて傭兵なの。AEGISってPMC知らない?」
「聞いたことあるわ。そう、やっぱり司令部は、対空砲陣に突っ込むなんて危険な任務に、正規軍を使いたくなかったのね。仲間の命がかかっていても…」
 彼女は目を伏せた。
「うんまあ…でさ、社長が今回の報告見て、あんたに興味があるって」
「スカウト?私を?まさか…」
「どうして?」
「だって…私はあれだけの兵士を……誰も助けられなかったのよ?そんな能の無い医者なんて、誰が雇うっていうの?」
「助けなかったわけじゃない。あんたはあそこにいた全員、死に物狂いで助けようとしたじゃないか。検死報告書いた検死官が泣きそうな顔してたよ。あんなに思いの詰まったご遺体は初めて見た。素晴らしい軍医がいたものだってね」
「よしてよ……私は………」
 記憶が蘇ってくる。まるで今目の前にあるかのように、まざまざと…。
「私は最低の医者よ…誰一人助けられなくて…自分だけ生き延びて……」
「じゃあさドクター。さっき会いに行ってた彼女、最後なんて言ってた?」
「…!」


   ありがとうドクター。
   彼はきっと幸せでした。
   あなたのようなお医者様に診てもらえて…。


 彼女の瞳から、涙が溢れて落ちた。
 それは彼女が、一番つらいと感じていた言葉だった。
 立つことも出来ないおばあさんにしがみついて泣かれ、まだ4つにもならない女の子に、パパはいつ帰って来るのと聞かれる事よりも、彼女の胸を深く冷たく抉っていたのは、感謝の言葉だった。
「どうして…あなたがそれを知ってるの?」
「同じなんだよ。本当に勤めを果たしたやつにゃあ、みんなその言葉が贈られるんだ」
 はにかむように青年は笑った。この若さでどれほどの戦いを潜り抜けてきたのか。彼女は少し彼を尊敬した。
「あんたが能無しだったら、みんなあんたを恨んでたろうな。でも遺体は全部故郷に帰って、きちんと墓に収まったじゃんか。それって…なんつぅか、奇跡じゃない?」
 返事は無かった。彼女は声を上げて泣いていた。
 やっと、やっと今その言葉を素直に受け入れることが出来た。
 ありがとう……なんと優しい言葉がこの世にはあるのか!


「うちはさ、そういう医者がほしいんだ。助かる見込みが1%しかなくても、100%の力を出せる医者がさ。それがあんただと…いや、あんたしかいないと、俺も社長も思ったわけ。どうかなドクター、今まで助けられなかった命のため、これから先すべての患者を治すくらいのつもりで、また軍医に…、傭兵の軍医になってくれないかな?」
 彼女はようやく泣き止み、涙を拭って言った。
「……二つ、わがままを聞いてくださる?」
「ん?あぁ、決定権は無いけど、まあ社長に頼むくらいは…なに?」
「ひとつは、治療に関わる私からの要請、要望は必ず聞き入れてほしいの。そのかわり無茶なお願いは言わないわ」
「ああ、それなら社長も納得すると思う。でもう一つは?」
「傭兵さんって、身元を隠すためにコードネームをお持ちなんでしょう?私のコードネームは自分で決めたいの」
「なんだ、そんなんならお安い御用だ。もう決めてるの?」
 彼女は微笑んで答えた。
「シャーリー・テンプル。あの方の名前を頂くわ。あの方みたいに、愛される軍医でいたいから…」



(了)

 小高い山に囲まれた高原を、心地よい湿気を帯びた風が渡っていく。
 空は青く、草原は碧く、雲が漂うように流れていく。
 人家もまばらなその集落に、ぽつんとそのパン屋はあった。
 彼女は店先のベンチに腰掛け、店内から漂ってくる淡い香りを楽しんでいた。焼き上がりが近いようだ。
「さぁ、お待たせ。今日もいい出来だわ」
 大きな皿にこぼれんばかりのパンを乗せ、頬に粉をつけた若い女が出てきた。
 皿をベンチの前のテーブルに置くと、一層濃厚な香りが彼女を包んだ。
「まぁ、本当においしそう。食べ過ぎちゃいそうで怖いくらいだわ」
 彼女は微笑んだ。そして持参した魔法瓶を取り出す。
「おいしい紅茶を持ってきたの。ミルクはあるかしら?」
「まあ、それも彼が言ってたの?」
「ええ、おすすめですって」


 レーズンロールをちぎって口にし、ミルクティーを一口すする。スポンジのようなパンがミルクティーをじわっと含み、レーズンの甘みが紅茶の香りに花を添えるようだ。
「んー…素敵。焼きたてのパンってこんなに香ばしくておいしいのね?」
「ドクター、食べたこと無いんですか?焼きたて」
「野営地だと、乾パンも貴重品なの」
 彼女はおどけるように微笑んだが、相手の女性は少し戸惑った。
「…ドクター、みんなの所を回ってらしたんですか?あそこで亡くなった兵士の故郷に…」
「ええ、亡くなられた順に、一軒一軒回ったわ。最後になってしまってごめんなさいね?」
「そんな……でも、つらくは無かったですか?」
「そうね…立つことも出来ないおばあさんにしがみついて泣かれたり、まだ4つにもならない女の子に、パパはいつ帰って来るのって聞かれたりしたわ。でも…」
 彼女は何かを言いよどんだ。そして話題を変えるようにいった。
「あぁ、そうだわ。あなたに伝えなくてはならない事があるの」
「なんです?ドクター」
「彼の最後の言葉よ。シャーリー、愛してる。って……」
 彼女、あの青年の妻シャーリーの目から、大粒の涙がこぼれた。
 シャーリーは顔をおさえ、声を上げて泣いた。彼女はその肩を抱き、目を潤ませた。

「隊長!キール隊長!生存者確認!こちらです!」
 テントのドアを開けて入ってきた兵士が叫んだ。長い耳をしたエルフの青年がテントに入ると、そこは死臭に満ちていた。
 テントの奥で、ベッドに向かって座ったままの女性が一人、こちらに背を向けていた。青年が歩み寄る。
「アンタ軍医か?他に生存者は?」
「……いないわ」
 今にも消えそうな声だった。
「彼が…最後の生存者だったの…。お腹を撃たれて…盲管銃創で、すぐに摘出しなきゃいけなかったんだけど……もう……メスも包帯も……消毒液すらここには残ってなくて………シーツを裂いて止血することしか………」
「………」
 青年と、後に続いた兵士は押し黙っていた。
「でもね…私軍医でしょう?この人を助けなきゃって…思ったの。でも…何も無いから、せめて生きる希望だけでも持って…もらいたかったの。助けが来るまで持ちこたえてほしいって。だからずっと…笑顔でいたの。大丈夫よ?もうすぐ助けが来るわって。でも……私が無線で救援を要請したから……救援は難しいって言われたの……私だから………知ってたのに………言えなかった……………」
 彼女は笑っていた。いや、笑顔が顔に張り付いたまま取れなくなっていたのだ。笑顔のまま、自責の念に苛まれていた。
「すまない。対空砲のせいで容易に接近できなかったんだ。ついさっきどうにか陣をつぶしてヘリを飛ばしたんだが……」
「そう…さっきの音、あなたたちだったのね?ありがとう、こんな所まで……もう誰も残っていないのに……」
「いいや、残ってるさ。あなたがね、ドクター」
「私は…!私は兵士を生きて返さなきゃいけない人間なの!私だけ生きてるってことは、勤めを果たせなかっただけよ!そんなの…生き残る意味無いわ!」
 彼女は飛び上がるように立ち、青年に悲壮な顔で叫んだ。青年は表情を変えずに言う。
「それだけじゃないはずだぜ?これだけ兵士がいたんだ。アンタ、何か頼まれごとをしなかったか?」
 頬を叩かれた様な感覚を覚えた。
 そう、山ほど頼まれたことがある。あのベッドで亡くなった兵士は、故郷に足の悪い母を置いてきたことを気に病んで、母に手紙を書いていた。
 その隣で眠る遺体は、この付近で採った花を押し花にして、娘への土産にするといっていた初老の兵士だ。
 あちらの兵士は息絶える寸前まで、恋人の名を呼び続けていた。
 そしてこの青年は…。
「行かなくちゃ…この子達の故郷。届けなくちゃいけないの。手紙や、押し花や……」
「そうだ、アンタは生きろ。あとは俺たちに任せな。早くヘリに」
 青年に促され、彼女はテントを後にした。最後にもう一度、累々と横たわる兵士たちをその目に焼き付けて…。