どうやら原稿を纏めることが出来ましたので

ひさびさに続きを再開いたします。

よろしくお願いします。

                       (丈彦記)

 

 

× × × ×



さて、お話は一旦私が「W3(ワンダースリー)」のために虫プロに呼ばれた時分に

戻ります。

私が手塚さんに呼ばれた少し前、昭和40年(1965)のお正月頃ということに

なりますが、
ちょうど私は身の周りの基盤作りというか、とにかく子供が生まれて家族が増えると
田無の都営住宅はちょっと手狭な感じになりそうだったので、いわゆる「団地」、
正しくは「公団住宅」に応募したところでした。

この頃いわゆる「団地」、日本住宅公団の、まだ高島平とか出来る前ですから、
4~5階建ての今でいう中層団地は新しいライフスタイルとしてとても人気が

あったのです。
全国にどんどん団地が作られていましたがどこも大人気で、だから新設団地の入居は
どこも抽選制だったのです。それに私も応募していて、で、当選通知が来たのですが、
通知が来たのはもう虫プロに缶詰で手塚さんと二人で「W3(ワンダースリー)」の

企画を纏めている真っ最中だったのです。

当選したのは東京・調布市の神代(じんだい)団地でした。昭和40年代風の典型的な
団地風景として往時はロケなども多く、都心や虫プロのある富士見台からも近からず
遠からずの手頃な団地です。野川という中規模河川が貫通しているのがこの団地の
特徴ですが、その川沿いのちょっと見晴らしのいい号棟の中階の部屋が

当選しました。

この団地は以後ずっと私の自宅という位置付けで拠点にしていたのですが、

つい先年、引き払ってしまいました。この時、入居時の日本住宅公団との

賃貸契約書を引っ張り出して眺めていると後ろから覗いた息子が「えー!?」と

大声を上げました。まあ、私も「あー、そうだったっけ」と思って眺めていたところでしたから息子が声を上げた理由も解ります。

その賃貸契約書の中段、家賃保証人の欄に、よく見たことのある例の文字で

「手塚治」

と記されていたからです。
そうでした。
そういえば手塚さんにお願いしたのです。

私は虫プロに缶詰めでなかなか家にも帰れない状態で団地の当選書類を

受け取ったのでした。
で、家賃保証人です。借金の保証人と違って家賃契約の保証人は当時も既にかなり

形式的なものでしたが、この頃私はまだ20代、そのくらいの年代だと親もまだ現役で健在なことが多い
でしょうからこうしたものはまずは親に頼むのが一般的といったところでしょうか。

私の親も杉並で健在でしたが、当時は万事、紙を持ってうろうろしなければ

いろんな手続きが進まなかった時代です。このころには私はもう軽ではありましたが車で動いていましたが、
それでも少しの時間も惜しい時に、たった一筆貰うためだけにうろうろ走り回って

半日潰れてしまうなあと思ってふと目を上げたら、そこに勤め先の「社長」が

いたのです(笑)

こちらも何も考えずに手塚さんなら公団的にも問題ないよなあとお願いしてみると、これまた手塚さんもニコニコと何の躊躇もなくその場でさらさらと

書いて渡してくれて、はい、オシマイ(笑)

トキワ荘の逸話や虫プロの成り立ちからしても手塚さんが後進に優しいというか、

世話好きと言ってもいい一面を持っていたのは確かなことなのでしょうが、どうも

今思うともっと昔の周囲が「先生と弟子」みたいな雰囲気の頃ならいざしらず、

このころにはもう天下の手塚治虫にぬけぬけとこんなわたくし事の世話を頼む者も

減っていた頃なのかもしれません。

おかげさまで、この年の夏には無事この団地に入居でき、翌年には第2子である長女も
生まれました。長女が生まれた時には手塚さんは祝電を下さり、また名付け親にも

なって下さいました。この時の祝電は本人が宝物として持っているはずです。


しかし、子供が二人になる頃になるとスペース面ではまたまた問題が出てきました。

入居した部屋は3DKの部屋でしたから、普通に家族4人が暮らすには充分なように

作られてはいたのですがウチの場合は仕事関係のスペースも必要になってきて

いたのです。

東映動画時代は社員としてスタジオの一画に個人用の動画机が当てがわれていて、

仕事の内容も単純な原動画の作画作業でしたから扱う紙類や道具も大したものはなく一般のサラリーマンと大差はありませんでした。しかし「ドルフィン王子」

あたりから監督的な仕事の比重が増し、身の周りの資料や道具、紙類が何倍にも

増えました。これが「殺生石」以降になると、一応出掛けて行く仕事場や机は

あるものの、そこには関係のない資料や絵もたくさん抱えることになります。

こうしたものまで赤ん坊が二人もいる家の中に置いておくのも困難になって

きました。

そこで団地とは別に民間アパートを1室借りて、これを事務所兼スタジオ兼アトリエとすることとしました。最初はなかなか落ち着かず、結局仕切り直して移転したり

しましたが、最終的には杉並区上井草のとあるアパートに落ち着きました。

普通の居住用の部屋です。住所的には上井草でしたが井荻駅の近くです。井荻は

西武新宿線の駅で、虫プロのある西武池袋線の富士見台とは線が1本違いますが

両者の間には千川通りが真っすぐ走っており、既述の通りもっぱら車で動いていた

私には好立地でした。

とりあえず私はここを「タクプロダクション」もしくは略して「タクプロ」と

称することにしました。もっとも「プロダクション」と言っても所属は私1人ですので、酒井一美や一時的に若い人に手伝ってもらったりといったことがあるくらいで

組織という程のものはありませんし、これ以降もテロップなどへの表記は「杉山卓」

だけのまま、後年、会社を持った時には別の名前にしてしまったので、ほとんど

スタジオとしてのこの場所の名前というような感じになってしまいました。

こうして徐々に身の周りを整えながら中島さんのところで「殺生石」を作り、

完成後には手塚さんとの約束通り虫プロに戻った訳ですが、また同じようなことが

あっても何ですので、身分的には虫プロ社員ではなく中島さんのところと同じように

作品ごとの契約というカタチしてもらいました。今から考えると要するに「フリー」

ということなのですが、当時は「よし、これからはフリーでやろう!」とかそんな

意気込みはなく、目の前の仕事を具合よくこなそうとしているうちになんかそういう

ことになったという感じの方が強かったかもしれません。

しかし、「フリー」な立場になったことは程なく効果を表し始めました。虫プロの

仕事以外の仕事がぽつりぽつりと入って来るようになったのです。まず始めは古巣

からでした。虫プロの前に所属していた(株)テレビ動画から「海外向けに『ジョニー・

サイファー』という作品をやるから手伝ってくれないか?」というお話を頂いたの

です。虫プロの仕事をしながら「ジョニー・サイファー」もやっていると、さらに

いろんなところからどんどんと仕事のお話を頂くようになりました。

その中にはそれまでの劇場用アニメーションやテレビアニメとはやや毛色の異なる
アニメーションの仕事も含まれていました。
それはCMのアニメーションです。