ブログ管理の杉山丈彦でございます。

 

杉山卓は引き続きリハビリ施設で療養中ですが

一応、近々自宅には戻る段取りのようです。

しかし大手術であったため、なかなか立ち上がることも難儀な様子。

山岳部出身で健脚自慢であっただけに、

それがどう出るものでしょうか。

 

ひとまず残りの仕掛かりを纏めて続きとさせていただきます。

 

  ×   ×   ×   ×

 

「ワンダーくんの初夢宇宙旅行」2

さて、NHKといえばそのルーツは正真正銘のお役所であることもあり、

権威主義というか、まあ要するに漫画とかその周辺に対する評価は、

当時の「お堅い方面」一般と同様にあまり高いモノではなかった訳ですが、

その頂点とも言える「手塚治虫」という才能に関しては軽視していたという

ことはなく、実は当時既に一定の関係を築いていました。

代表的なものとしては「銀河少年隊」という人形劇があります。
この番組の放送は昭和38年(1963)から40年までで「鉄腕アトム」の

テレビアニメとは同時期です。この作品は手塚さんの原作をNHKお得意の

手法である人形劇にしたものでした。

一方、私の方はと言うと、実は私にもNHKとの接点はありました。
もうタイトルも忘れてしまいましたが、私もNHKで、確か井上ひさしさんが

書いた脚本を私が絵にしたものをカメラワークなどを駆使して撮影し

(つまり絵自体は動かない)、これにアニメーションなみのアフレコ音声で

台詞や音楽などを付けた、言わばテレビ紙芝居のような作品を作った覚えが

あります。

  <丈彦記>
 実はこの一文が看過出来ず、その正体を調べるのに手間取っているさ中に
 杉山卓が負傷入院してしまったという流れです。
 そういえば私(丈彦)も、昔、楳図かずおさんの「猫目小僧」をテレビで
 見ていた時、後ろから杉山卓が「オレもこういうのやったことあるよ」と
 言っていたことがあったように憶えています。

 「妖怪伝 猫目小僧」は昭和51年(1976)に放送されたテレビアニメですが、
 「ゲキメーション」と銘打って全編切り紙アニメーションで製作されている
 作品です。杉山卓の話によればこれと似た感じの手法で、上記の通り
 井上ひさしさんが書いた脚本を元に杉山卓が絵を描き、これを

 カメラワークやエフェクトだけで画面に構成し、音声や音楽を付したものを

 NHK番組として放送したということのようです。

 井上ひさしさんと言えば現在では小説家として広く認識されている

 大作家ですが元々は放送作家であり、アニメーションとも深い関わりの

 ある方でいらっしゃいます。また、放送作家時代は特にNHKとの関係が

 深い方でもいらっしゃいました。
 もっとも井上さんが数多の放送作家の中から頭角を現してきたのは

 何といっても人形劇「ひょっこりひょうたん島」(昭和39年/1964~

 44年/'69)以降のことでもあり杉山卓の方も虫プロ入社以前の

 テレビ動画(株)時代ごろ(昭和38~39年?)のおはなしである可能性が

 高いのではないかと思われます。

 一般に草創期から昭和40年代までのホームビデオ普及以前のテレビ番組は、
 どのような形であれ、現存するものが極めて乏しく、資料も限られています。
 ビデオテープが貴重品で、再利用があたりまえだった当時の番組では、

 むしろ工程上、一旦フィルムにならざるを得なかったテレビアニメは例外的な

 残存率を示すコンテンツと言えるのです。

 先日療養中の杉山卓本人に再度確認したのですがこれ以上詳しいことは

 やはり憶えていないということですし、酒井一美の方もこの件について記憶は

 しているものの内容に関しては似たり寄ったりでした。
 実はこのあと記す「ワンダーくん」にまつわる後日譚の流れの中で、

 杉山卓の方でもNHKに「そういえば、こういうのもやった覚えが

 あるんだけど…」と尋ねてみはしたそうなのですが、NHK側でもやはり、

 この作品については現物はおろか該当しそうな記録も見つからない様なので

 今のところこれ以上手掛かりがない状態です。

 というわけで、この井上ひさし-杉山卓ジョイントによる

 「幻のテレビ紙芝居」についての詳細は判明しないままなのですが、

 井上ひさしさんともなると研究家がいるであろうレベルの

 ビッグネームでもあり、テレビアニメ黎明期、このような試みによる作品も

 存在したということだけ記して後学にお任せする他なさそうです。



さて、「殺生石」の製作を終えて私が復帰した頃の虫プロは、

実は虫プロ的にも新たな方向への動きが表面化している時期でした。

実は「殺生石」以前に私がいた頃にも既に「ジャングル大帝」制作メンバーを
中心に手塚さんを作業の行程から「外す」ような動きはもう起こってはいました。
しかし、しばらくぶりに戻った虫プロではこの動きは更に加速して、
虫プロという会社は手塚治虫社長でも事務方でもなく現場アニメーター群が
主導する会社になっていたのです。

しかし、私を含めて現場アニメーターというのは経営センス的には疑問のある者が

大半で、その結果、それなりのヒット作が続いていたにもかかわらず経費の

増大などにより会社の経営状況は悪化、事態の収拾策として虫プロ商事という

別会社が立てられ、版権管理や出版などのアニメの実制作以外の部門が

独立した形になっていました。そんなこんなで昭和42年(1967)秋に虫プロに

戻った私は、すぐに「虫プロ商事の」企画したテレビアニメシリーズを

監督することになりました。

虫プロ的にはこの作品は、初の「脱手塚作品」であるのみならず、企業としての

虫プロが一つのアニメスタジオとして採算性を考慮した「ビジネス」を

成り立たせるための試金石でもあったようにも聞いています。
虫プロ的にも私は生えぬきではないし、虫プロ内のさまざまな勢力争いからも

外れている部分もあるうえ「殺生石」以降は社員でもないので何かと

便利な部分はあったようです。

この作品は川崎のぼるさん原作の「アニマル1」という作品でしたが実際の制作は

従来の作品と全く同様に虫プロ本体で行われましたので、現場の実感としては別段

それまでの作品と違った感じはしませんでした。
というか、あまり違いを意識せずに作ってしまったので、そういう経費的な面でも

あまり違った結果が出ず、そういう意図からすると申し訳ないけれど

狙った通りにはならなかったのかもしれません。

まあ、この作品に関しては「ドルフィン王子」や「W3(ワンダースリー)」、

はたまた「殺生石」とは全く違い、原作付きであることもあって、「手探りで

作っていった」という感じでもなかったせいか、あまり憶えていることも

ないのですが、スタッフ的にも「W3(ワンダースリー)」の時と同様、虫プロ内の

「はみ出し者」を集めて作ったようなところはあったのかもしれません。

「はみ出し者」と言うとなんだか二線級のスタッフであったような感じがするかも
しれませんが、あくまで虫プロ内の勢力争いのハナシなので、

けっして二流のメンバーだったという意味ではありません。なにしろその中には

後に有名になるトミノ(富野喜幸、現由悠季)君とかリョースケ(高橋良輔)君

とかもいたのですから。特に彼らは「W3(ワンダースリー)」の時期には

「制作進行」をやっていましたが「アニマル1」の頃にはもう演出を手掛ける

ようになっていました。

アニメの現場にも小間使い的な役割のヒトは「白蛇伝」の頃からいたのですが、

実写の撮影現場の小間使いの延長の感覚ではっきりした立場のものでは

ありませんでした。
これが虫プロ時代になると「制作進行」(現場では単に「シンコー」と呼ばれる)
という名前でアニメ-ターと同じ社員となりますが、絵描き系とは別に

進行から演出、演出から監督という道筋はまさに彼らが先頭になって

築いていったものと言えます。


さて、「アニマル1」の制作も一段落したころ、今度は一転して手塚さん主導の企画に

参加することになりました。これがそのNHKの企画です。
単発で、昭和44年(1969)のお正月のスペシャル番組でしたが、

「W3(ワンダースリー)」以来ひさびさのアニメーション向けオリジナル手塚作品

として企画することになりました。
例によってクレジットは「手塚治虫原作」となってはいましたが
「W3(ワンダースリー)」の時と同じように手塚さんと私とでアイデアを出し合って
オハナシを一から作っていくことになったのです。