ブログ管理の杉山丈彦でございます。

 先日私も病院の杉山卓本人と直接電話で話をすることが

 できました。

 近日リハビリ専門施設に転院するそうで回復は順調の

 ようです。

 本日はとりあえず負傷以前に準備中だった原稿を完成

 させたものにて失礼いたします。

 

  ×   ×   ×   ×

 

「ワンダーくんの初夢宇宙旅行」1

手塚治虫という人は疑問の余地なき天才でありまして、もちろん
絵描きとしても天才的なのですが、実はもうペンを取る前の時点で
充分に天才でありまして、要するにいろいろな誰も見たこともない
ような新しいアイデアが常時とめどなく溢れ出て来る人で、
もうそれは本人も多少持て余し気味なくらい次から次へと湧いて
出て来るのです。

しかし、山の泉が水をそこで製造しているのではないのと同じように
手塚さんも何もないところからアイデアを出しているのではなく、
泉の素が山に降った雨であるように手塚さんもアイデアの素は他から
取り入れている。ただ、山と手塚さんが違うのは、山は雨が降ってくるのを
じっと待っているのに対し、手塚さんはアイデアの素をとても積極的に
求めたところが違うのです。なので手塚治虫という人は実に
「面白いモノ」に貪欲なヒトでした。

虫プロの中で「こんな映画を見た」「こんな作品を読んだ」なんていう話を
していると、虫プロでは一番忙しいヒトのはずなのに、手塚さんがひょいと
現われて、興味津々に「それは面白かったですか?」とハナシに入って
くるのである。

「それはどこが面白かったんですか?」

こう文字で書いてしまうと「そんなもののどこがいいんだ?」と詰問している
ようにも読めてしまいますが、手塚さんの場合はそんなニュアンスは
みじんもない。未知の面白いもの、そしてそれが既知の面白いものであっても
自分以外のヒトがそれをどのように捉え、感じ、どのように面白いと思ったかに
ついて、もう常に大変に興味津々なのです。


昭和42年(1967)秋、「殺生石」の実製作を終わった私は手塚さんとの約束通り
虫プロに復帰しました。ただ厳密にはこの時以降は、株式会社虫プロダクションの
社員というカタチではなく、作品ごとの契約というカタチになりました。

これまたこれこそが「本邦におけるフリーのアニメ監督の起源」とする説がある
そうですが、「フリーのアニメ監督」となると厳密な定義は難しそうですし、
私個人に照らしても、それでは名義こそ「八木晋一」だけれども、中島源太郎さんの
日本動画と「殺生石」のための契約をしたときがその時ではないのかという疑問も
ありますし、そもそも他の人の動向は細かくは知らないので、正直よく分かりません。

ただまあ、本邦に於いて「フリーのアニメ監督」という職種(?)が業界的に認知された
時分、当初から私もその括りの中に含まれていたというのはその通りでありまして、
私もこのころから虫プロにしつらえられた机とは別に、自分のアトリエ兼オフィスを
確保して仕事をするようにもなっていったのです。


さて、私が復帰した頃の虫プロで、手塚さんが継続的に気に掛けていたものの

一つにディズニー映画「メリー・ポピンズ」(1964年)があったことは間違いない

でしょう。
この映画は世界的大ヒット作品であり、内容的にも大いに手塚さんにとって
刺激的なものではあったでしょうが、しかし内容にも増して手塚さんを夢中に
させていたのはこの映画で大胆に取り入れられた新しい「手法」でした。

「メリー・ポピンズ」は合成技術の発達を駆使して実現した世界初の本格的

アニメ・実写共演映画という触れ込みの映画だったのです。

現在ではコンピューターによる合成技術の発達でこうしたことがとても安直に

出来るようになった結果、むしろ漫画的なアニメキャラクターと実写の役者さんが

そのまま共演するような映像はあまり流行らなくなってしまいましたが、

当時はさまざまな試行錯誤の末、ようやく実現した夢の技術でしたから、

手塚さんもその映像から受ける刺激は実に大きなものがあったろうことは

推察できます。


そしてここにNHKが絡んできます。NHK。言わずと知れた日本放送協会は

当時も現在と同じように日本を代表する放送ネットワークであり、

当時も今と同じように放送界においては圧倒的というより全く別格とも言える

存在でした。ただ、この昭和40年代初頭当時、ことテレビアニメに関しては

独り遅れているというか、無視しているというか、全く関係の薄い存在

だったのです。

民放であるフジテレビが「鉄腕アトム」の放送を開始すると、

その大人気ぶりに他の民放局もすぐに追随し、昭和40年頃には既に

「テレビアニメ」という放送番組の形態が確立していました。

しかし、NHKは公共放送のプライドのなせる技か、この流れには全く乗らず、

テレビアニメとは縁のない放送局になっていたのです。

NHKとてアニメーションという映像表現に全く関心がなかった訳ではなく、

むしろ独自のアプローチからアニメーション映像を研究していました。

NHKが強いコネクションを持っていたのは童画系の映像作家の方々です。

動画ならぬ「童画」とは主として出版系の用語で、子供向けの絵本や児童文学の

挿絵などの絵の方面をいいます。
「おかあさんといっしょ」などの児童番組で使われていたアニメーションはこうした
方面の作家の作品で、東映や虫プロの系統のアニメーションとは傾向も人脈も

大きく異なっていました。

結局、NHKが「テレビアニメ」に本格的に進出するのは民放からは10年以上も

遅れた昭和50年代のことになりました。宮崎駿君が監督した日本アニメーションの
「未来少年コナン」がその最初の作品ですが、この10年以上の間に「鉄腕アトム」が
定めた番組としてのフォーマットが海外販売などの要素も絡んで強固に固まって
しまったために、NHKのテレビアニメはNHKの番組としては折り返しや終了後に
CMタイムのための余白が開いてしまい、放送時には穴埋め的なコーナーを

設ける様な結果になってしまいました。

ところが、たった1回限りの特番ですが、昭和40年代の内に1作だけ、

NHKと虫プロの間に接点があったのです。それがこの作品「ワンダーくんの

初夢宇宙旅行」でした。