さて、虫プロでは手塚さんが首を長くして待っていますから、「殺生石」の
実制作作業が完了すると早々に私は虫プロに復帰いたしました。なので
この後この作品が辿ったてんまつの多くは当時、私も源太郎さんと一緒に
体験したという感じではありません。
「殺生石」のフィルムが完成するとプロデューサーである源太郎さんは手順通り、
その上映館を確保するべく動きました。しかし、フィルムは源太郎さん的には
満足する出来に仕上がったにも関わらずその上映館の確保は容易なものでは
なかったのです。
当然ながら源太郎さんはまず古巣でもあり製作にも深い関わりのあった大映に
上映を打診しました。しかし、その返答ははかばかしモノではなかったようです。
源太郎さんは他社系での上映なども交渉しましたが、お話はまとまらず、
結局また大映と交渉して、どうにか確保した上映枠は昭和43年(1968)の
10月19日からでした。実にフィルム完成から1年も経った頃です。
この映画の上映がこんなに難行した理由、それはなによりもこの映画の
位置づけを当時の映画関係者の多くが理解できなかったことが大きいでしょう。
この作品は読者の皆様もうお気づきのように、いわゆる「こども向き」とは
言えません。そういう意味では本邦で初めて試みられた大人の鑑賞を意識した
長編アニメーション作品と言えましょうか。
しかし当時の、少なくとも源太郎さんとの交渉を担当した映画会社の
編成関係者はこのことを全く理解しなかったようです。「まんが映画
(=アニメーション)はこども向け」源太郎さんと交渉した編成関係者は、
この、当時は一般的ではあった固定観念から一歩も出られなかった
ようなのです。
公開は「日本人ここに在り」という海外移民を追った記録映画と同時上映で、
これだけでも全く趣旨も方向性も異なる映画を無理矢理抱き合わせにした感が
伝わって来ますが、その乱暴さはなんと、この映画のタイトルにもっと端的に
現れたのです。
何度か記してきたようにこの時点までのこの映画のタイトルは「殺生石」でした。
「殺生石」は那須の史跡として現在も残っている観光スポットと同名なわけですし、
「殺」という刺激的な文字も入っていたりして悪くないタイトルだと思うのですが
しかし公開時、この映画のタイトルは周知のように「九尾の狐と飛丸」と変わって
いたのです。
息子はこのタイトルを「散文調で、なんかサブタイトルみたいだ」と言います。
落ち着きの悪さはともかく、タイトルが内容から浮いているのはいただけません。
玉藻の正体はたしかに妖怪「九尾の狐」なのですが、九本のしっぽを持つキツネの
姿になって闘うようなシーンはありません。やられたシーンでそれらしい影が
ちらとよぎるだけです。
もっと問題なのは「飛丸」です。
そもそも飛丸は小説「玉藻の前」では「千代松」という名の青年にあたり、その
千代松も小説オリジナルの人物なのです。つまり「飛丸」なる人物名は全く
このアニメオリジナルの人物名であり一般の人もいきなり「飛丸」と言われても
誰も知らない誰だか分からない名前なのです。
どうにも「より、まんが映画っぽいタイトルに変えて、抱き合わせでファミリー枠に
押し込んでしまえ」という乱暴な取り扱いが伺われる措置に思えてしまいます。
結局、こんな無理もあってかこの映画の興行的な結果はかんばしいものでは
なかったようです。
しかし、なんでもこの映画に文部省推薦を取りつけるために奔走したのが
源太郎さんに政界から声が掛かるきっかけになったということらしいので
人の運命というのは分からないものです。
ちょうど同じ頃、東映では「太陽の王子 ホルスの大冒険」が
制作・公開されていました。高畑(勲)君が初めて「演出」(≒監督)と
なった意欲作で、制作着手はこの作品の方が「殺生石」より後なのですが
東映系で問題なく公開されたため上映はこちらの方が先になっています。
(昭和43年7月21日公開)
「殺生石」のキャラクターデザインを最初にお願いに行ったのは森康二さん
という話をすると息子をはじめ当時のアニメの状況を知る人は「ホルス」との
関連に思い至るようです。
「ホルス」以前にも「こねこのらくがき」をはじめ、森さんのキャラクターデザイン
によるアニメ作品はありますし、「ホルス」も全部が森さんというわけでも
ないようですが、画調的には全体に森さん色が強く、これが高畑君をはじめ
宮崎(駿)君や小田部(羊一)さんなど(当時の)東映残留組にとって大きな
礎となり、のちの「ハイジ」や日本アニメーション作品、ジブリ作品などにも
絵柄のみならず強い影響を残した作品になっているということからのようです。
たしかに「ホルス」とは作品の制作時期だけでなく、その大人向け的な暗めの作風、
日本の民話をベースとする点(「ホルス」は北欧風の仕上がりになっていますが
元はアイヌ民話だそうで)、ヒロイン自身が悪魔の化身であり敵の中核でもある点
など共通点も多く、もし当初案のように「殺生石」を森さんのキャラデザインで
制作していたなら両作品はまるで兄弟のような印象の作品になっていた可能性も
あったかもしれません。
しかし、この両作品にはもう一つ重大な共通点があります。
そう、それは「ホルス」の方もやはり興行的にはあまりうまくなかったという
ことです(笑)
こちらは外様の作品として粗略に扱われたということもなかったでしょうから
やっぱり「こども以上」の年代を意識したアニメーション作品は、まだ業界的にも
観客需要的にも時期尚早であった部分は確かにあるのでしょう。
なにしろそういうのは多いものですから(笑)どうも実作業が伴わなかった
打ち合わせの類は忘れてしまうようで、私はあまりよく憶えていないのですが、
どうやら「殺生石」の公開を待つ時期、源太郎さんと私でもう次作に関しても
簡単な打ち合わせはしていたようです。源太郎さんが温めていた次作の構想は
「聊斎志異」であったということのようで、息子は我が家にその痕跡があると
言っています。
<丈彦記>
「聊斎志異」(蒲松齢作)は中国清初の志怪書(幽霊や不思議な話の説話集)
ですが映画原作としては「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」(原題:倩女幽魂、
1987年・香港)の原作としても知られます。
中島さんが「殺生石」に続く企画として「聊斎志異」を考えていたと聞いて私には
すぐに思い当たるものがありました。
我が家には昔から「聊斎志異」の2冊組箱入りの立派な訳本があるのです。
私(丈彦)も妹もこの本が好きで、私らが高校生くらいの頃にはこの本は
杉山卓の書棚と私の本棚と妹の本棚を行ったり来たりしていました。
ところが上記のように杉山卓は「聊斎志異」については知っているだけで記憶に
乏しく立派な訳本を買い入れるだけの思い入れは少なくとも現在はない様子。
本の発行日を見てもやはり昭和40年代初め頃なので、どうやら中島さんに
次作の構想を「聊斎志異」 と内示されて買い込んだもののようです。
結局源太郎さんはこの映画公開の翌年(昭和44年・1969)、衆議院議員選挙に出馬され
当選、政治家の道を歩まれることになりました。
たしかにテレビ黄金時代の昭和40年代は、間違いなく日本の映画界にとっては
厳しい冬の時代でした。
東映でも昭和46年(1971)の大川博社長の死去をきっかけに大リストラが
おこなわれました。
東映は実は経営的にはそれほど追い込まれてはいなかったとも聞きますが、
全グループ的に大整理が行われ、特に子会社や関連事業は大胆に
整理されました。甚だしくは大川さんが東映本体とともにグループの双璧と
していたフライヤーズも売られてしまいました。(東映フライヤーズ、現在の
北海道日本ハムファイターズ、昭和48年売却)
他にボウリング場事業なども整理されたそうですが、後継者が大川さんの意図を
正しく理解していたものか、当時もまだ赤字会社であったにも関わらず
東映動画だけは売られることはありませんでした。(もっとも、この頃から
東映動画もアニメーターが机を並べて絵を描いているような会社ではなくなって
いきますが)
そして、この後しばらくすると東映動画はロボットと魔女っ子の大ヒットを両輪に、
東映グループ全体の採算に貢献するようになっていきます。
一方の大映は、東映が苦しい中でも将来を予見して維持していたアニメーションの
制作体制が、向こうから無償で転がり込んできたのを生かすことが出来なかった
部分もあったと言えましょうか。というかどうも既にこのころの大映内部は
経営難から相当な混乱状態に陥っていた部分もあるようで、それが源太郎さんの
決断に影響を及ぼした可能性はあるのでしょう。
結局、大映はその後も混乱の度合いを増すばかりで昭和46年(1971)には一旦、
倒産してしまうことになります。
やや時を経て昭和55年(1980)、源太郎さんからの依頼で、東京現像所で
再編集版を作成しました。
その時、手元にこの映画の16ミリフィルムが残りましたので、最近までなんとなく
16ミリ版用の再編集のように思い込んでおりましたが、その直後にフジテレビ系で
この映画唯一のテレビ放映があったとのことですし、テレビ放映用の再編集だった
かもしれない(笑)
これは源太郎さんと私の二人で東京現像所に詰めて作ったバージョンでして、
(テレビ番組としての規格に合わせるため)若干尺を削ったバージョンです。
その際、前に書いた実写パートは役割を終えたということで(笑)真っ先にカット
してしまったのでこのフィルムにはありません。
なお、プロデューサーの中島源太郎と杉山卓の二人がおれば、誰に気兼ねする
こともなくこのような再編集が出来たということは、とりもなおさず、
その場に「八木晋一」が十全な形で居たということの証になろうかと思います。
杉山卓の元に残る16ミリフィルムのタイトルカット。
タイトルは「妖怪九尾の狐 殺生石」であり、映倫マークも付いているので
上映以前の段階の「完成版」を基にしているようです。
中島源太郎さん的にもやはりこの映画のタイトルは
「殺生石」であったということなのかもしれません。
さんぽプロさんの入手したテレビ放映の録画と比較すると
フィルムキズなどが一致しており、放送の原版フィルムであるらしい。
源太郎さんが文部大臣に就任した折には「史上初の文部省推薦映画を作った
文部大臣」の誕生を記念して文部省内でこの映画の上映会を催したと
聞いています。
やはり源太郎さん的にはこの映画は満足な出来ではあったのでしょう。
しかし、源太郎さんは文部大臣就任からわずか5年後、平成4年(1992)に62歳の
若さで急逝してしまいます。
そして選挙の地盤はNHKのキャスターであった次男の洋次郎さんが継がれ
当選されましたが、平成10年(1998)には受託収賄などの容疑で逮捕される
騒ぎの中で自殺されてしまうという事件となりました。
中島家は現在、政治家を継がなかった源太郎さんの御長男の管理下に
あるそうですが、閉門状態で世間との交わりは絶っているとのことです。
昨年末のこと、コミケに出掛けた息子は会場でこの映画のポスターを
掲げているサークルを見つけ、思わず声を掛けたそうです。
ポスターのサークルは埋もれている昔のアニメなどの研究書を発行している
「さんぽプロ」さんというサークルで、この「九尾の狐と飛丸」を研究して
纏めた分厚い本を作っていらっしゃいました。私も拝見しましたが実によく
調べていらっしゃって、源太郎さん関係には私の知らないことも多く、
舌を巻きました。
さんぽプロ「幻の劇場アニメ 九尾の狐と飛丸 徹底研究」
お問い合わせは、
https://videovideovhs.web.fc2.com/index.html
それで、なんでも息子とさんぽプロさんでお話をするうち「九尾の狐と飛丸」の
上映会をしたいというお話になったそうで。
で、この上映会は今年(令和5年)の5月4日、銀座の土橋にあるTCC試写室という
試写室で行われたのですが、実はこのブログでもご案内しようかと思っていた
ところ、「こんな忘れられた映画」と私らがのんびり構えていたのに反し、主催者の
方が告知されるとたちまちのうちに満員になってしまいまして、そんなに需要が
あるものなのかと驚いた次第でありました。
当日出向いた息子によれば会場は盛況で、過去この作品について私に取材に
来られたことのある方も複数ご来場下さったとか。
試写室なので小振りとはいえ作りは映画館と変わらず、大スクリーンで見ると
小さな画面で見るのとは全然迫力だけでなく画面設計から伝わる意図が違った
というのは息子の弁。当時は前提となるものがそれしかありませんでしたので、
まあ、そうなるかもなあとしか申せませんが(笑)
主催者の方と上映会に参加して下さった皆様には深い感謝を捧げる
次第であります。
実は他にもこの映画の上映会を開きたいと仰って頂いている方がいらっしゃい
ますので、実現のあかつきには今度はこのブログでも是非ともお報せしたいと
考えております。
去年の末ごろ、割れたという那須の殺生石の方でもなんと続報(?)が
あったようです。
なんでも殺生石の周囲で野生のイノシシが6頭も怪死(!)していたとか。
火山性ガスの仕業なのか何なのか、ともかく「殺生石」という名前のいわれに
なったであろう怪現象はいまだ健在のようです。
はたしてアニメの「殺生石」も再び暴れ出す日は来るのでしょうか(笑)