そういうわけで私のこの映画との関りは、東映時代の同期である小山礼司さんから
「中島源太郎という映画プロデューサーがアニメーション映画を作るための
アニメーターを探しているので会ってみてくれないか」と言われて、
六本木の事務所に源太郎さんを訪ねたことから始まりました。
話し合いの結果、まず一番最初の段階としてキャラクターデザインの仲介を
することになりました。
そこで最初にデザインをお願いしに行ったのは東映の先輩の森康二さんでした。
森さんは快く依頼を引き受けてくださり、完成したスケッチを源太郎さんに渡しました。
ところが、源太郎さんには既に相当にはっきりした絵柄のイメージが出来ていた
ものらしく、森さんのキャラクターは源太郎さんのイメージとは著しく異なる
ということで不採用になりました。
そこで次にはさいとう・たかをさんにお願いに行くことになりました。
さいとう・たかをさんと言えば、私にとってはつい先年、「W3(ワンダースリー)」の
星光一をデザインするためにしげしげと研究させてもらったばかりです。
さいとうさんも原稿の忙しいなか、この依頼を快く引き受けてくださったのですが、
その完成を待つ間、源太郎さんは私にもキャラクターを描いてみて欲しいと
言われました。
絵柄の雰囲気的には漫画的な優しさのある森さんの絵柄より、さいとうさんの
絵柄の方がイメージには近いことも判ってきていますので、例によってさいとうさんの
絵柄を参考にしつつも、さいとうさんと同じようなモノになっては意味がありませんので、
そういうイメージを取り入れるくらいの感じでキャラクターを描いてみました。
星光一よりはマリン君の方に近い感じになったかもしれません。
さて、そうこうするうち、本命であるさいとうさんのスケッチが出来上がってきました。
しかし、しげしげとスケッチを眺めていた源太郎さんは「……うーん。そのまま劇画調
というのも違うなあ…。これはタクさんのでいこう」
わたしも少し当惑しました。なにしろ当時、漫画界では劇画は新たな潮流として
興隆しつつある真っ只中の時期、さいとうさんはいわばその旗手ともいうべき
一大人気漫画家です。そんなさいとうさんに依頼して、首尾よくデザインを
獲得したのに既に確固として持っているイメージと違えばあっさりとお蔵入りにして
しまうあたりはこのときの源太郎さんの一般的なサラリーマンプロデューサーとは
違う、オーナープロデューサーならではの豪胆さと申せましょうか。
結局、漫画の原稿も忙しい中、私がお願いして描いてもらったキャラクターは、
なんと、私の絵が採用になったという理由でボツになったと、
これまた私が謝りにいく展開になってしまいました。
しかし、さいとう・たかをというのは実に気持ちのいい男で、私が謝りに行くと
すぐに事情を理解して快諾してくれたことが強く印象に残っております。
さて、キャラクターのデザインが決まると、いよいよ私を中心にスタッフを組織して
本格的に制作に取り掛かることになります。
当時、私は虫プロダクションの社員でしたので、ひとまず手塚治虫さんに
虫プロを退社してこの作品に専念することを申し出ましたところ、
手塚さんは「いやいや、給料日だけ出社してくれればいいよ」とおっしゃいます。
この時代は、虫プロに限らずサラリーマンの給料は現金を給料袋に入れて手渡しの
時代です。要するに社長が「キミは全然出社して働かなくてもいいから、給料日だけ
来てくれれば、給料は満額払うから」と言っているわけです。諸事のほほんと
していた私ですが、さすがにこれはのほほんと受け取るわけにはいきません(笑)
そもそも虫プロというのは、手塚作品に出会うことで人生が丸ごと変わって
しまったほどの日本全国の手塚ファンの少年たちの中から、さらに地方予選を
勝ち抜くような難関を潜り抜けてついに手塚さんのそば近くにまでたどり着いた
ようなヒトが主体となって構成されている集団なのです。
いっぽうの私はそんな虫プロの中から見れば、唐突に大外からやってきて、
かっちりした仕事はそっちのけでなにやら手塚さんと楽しそうなことばかり
やっているヤツ。そっち方面にはひときわ鈍い私にでも、そういう風に見ている
ヒトがいるのがときおりビンビンと感じられるような部分は既に確かにあったのです。
その上でそんな歴然たる「特別待遇」など受けては何を言われるか分かったものでは
ありません。そう思ってやはり退社を申し出ますと、手塚さんは「じゃあ、
籍だけは残してくれないか」と、作品への参加は妨げない形で、かなり強い慰留を
頂く格好になりました。
しかしまあ結局、終わったら戻ってくるという約束で、虫プロは一旦退社という
形を取らせて貰うことになったのですが。
鈍い私は「手塚さんはいい人だなあ…」ぐらいにしか思っていなかったのですが、
「W3(ワンダースリー)」から「展覧会の絵」という流れを今思えば、このころには
もう手塚さんには、私を使って劇場用アニメを作ってみたい気持ちがあったのかなあ
などとも考えています。