殺生石伝説の映画を製作するにあたって源太郎さんは、まずは原作を確保しました。
殺生石伝説は謡曲や歌舞伎にもなっていますが、古い伝説だけに細かい点は諸説あって、
まずは内容を絞らないと脚本にすることも出来ないからです。

戦前に活躍した作家・岡本綺堂の殺生石伝説を基とした小説「玉藻の前」を一応の原作と
決めた源太郎さんは、まず最初に岡本家と交渉して同作の映画化の許諾を得ました。
もっとも後に完成した映画は必ずしも小説「玉藻の前」を忠実に再現したものとは
なっていません。

次の段取りは小説「玉藻の前」を基にして映画用の脚本とすることです。当然、まずは
古巣である大映系のスタッフに声を掛けることになります。

このハナシが大映系のスタッフ陣に伝わるとたちまちのうちにこの映画に興味を示す者が
現われ、その数は徐々に増えていきました。
実に頼もしい限りで、制作が順調に進んで行きそうな流れですが、しかし、結果は逆でした。
人数だけは大勢のスタッフが集まったのですが制作の進行はむしろ暗礁に乗り上げてしまう
結果となってしまったのです。

制作が難航した理由のうち大きなものは大映スタッフ達のアニメーションに対する
認識不足でした。大映はそれまでにアニメーションとの接点があまりなかったこともあって、
自分たちは映画を作ることは出来るのだから、ぎりぎりまで自分たちが映画として

制作を進め、あとは最後に絵描きを呼んできて、ちょこちょこと画を描かせれば

完成するだろう程度の、アニメーションに対する甘い認識があったようなのです。

しかしそれ以上に、これは全員ではないでしょうが、集まってきたスタッフの質や思惑にも
問題があったようなのです。その背景となったのは「時期」です。この頃、大映は既に

経営的に苦しくなり始めていました。

昭和30年代、日本の映画界は黄金時代を謳歌していました。ちょうど、私が東映動画で
一アニメーターであった時分、最大手である東映は年間100本の映画を作っていると豪語
していました。この時代、東映だけではなく他の映画会社もフル回転で多数の映画を
作っており、どの映画館も観客で一杯だったのです。
しかし、昭和40年代になると状況が変わります。テレビ時代の到来です。

テレビの急速な普及とともに映画界は急激な体質改善を迫られました。といっても、
大作映画や人気作品、話題の作品などへの影響はそれほど致命的なものではありません。
そういった映画は映画ならではの特性を生かして生き残り、現在も映画館とともに健在です。
まっさきに影響を受けるのは数を稼ぐために比較的安易に量産されていた作品たちでした。
こうした傾向の作品が大きな比重を占めていた映画会社ほどテレビの台頭の影響を大きく
受けていたのです。

どうやらこの時期は大映では、既に製作作品の本数や予算の設定が厳しくなり始めていた
時期であったようなのです。状況が諸事厳しくなって来ている時期に、なんと、ふんだんな
自己資金で映画を作りたいという大金持ちのダンナが現われた!それ!…源太郎さんは
大映スタッフにとっては既知の人物であるはずですし、そもそも経験ある

映画プロデューサーであったにも関わらず、この映画の製作は最初からそんな

油断ならない状況に陥ってしまったのです。大映の状況はこの後もこの映画と源太郎さんに微妙な影を落とし続けることになります。

その端的な表れが制作の中心となるべき脚本でした。「殺生石」の脚本は実製作が始まる
までに実に8稿を重ねています。7回も書き直したということです。一見、実に厳しく脚本を
練り直した様でもありますが、そもそもどういうお話にするか手探りで作っていった
物語ならいざしらず、「殺生石伝説」という大枠のお話があり、さらに「玉藻の前」という
「原作」まで確保している物語の脚本としてはどうも多過ぎる印象です。

実際のところ、この脚本は多くの人がさまざまな思惑から口や手を出して弄り回した結果、
7回も改訂を重ねることになったというのが正直なところだったようで、最後には
脚本家としての実績のある方がどうにか脚本としての体裁を整えはしたようですが、
内容的にはかなりちぐはぐなモノになってしまっていた上、アニメーションならではの
映像表現も全く考慮していないというシロモノになってしまっていました。

私はこのあとこの脚本を基に「ストーリーボード」(≒絵コンテ)を描いたのですが、
今だから言ってしまいますと、この脚本はあまり使いモノにはならず、元の伝説や
原作小説と並ぶ「参考程度」にしかならなかったというのが正直なところです。

事前段階の要と言える脚本がこの調子でしたから、組織や体制作りの方も「俺にまかせろ」と
いう方は複数いらっしゃったようですが、実体の構築には程遠く、いろんなオハナシばかりが
複雑に絡み合い、お金ばかり掛かって一向に仕事は進まない状況に嵌ってしまいました。
まさにおおぜいが源太郎さんというオカネモチに「たかる」状態にまで陥ってしまったのです。

さしもの源太郎さんもこのようになってしまってはもはやなすすべなしと、一時は企画中止を
真剣に検討するところまで追い込まれてしまったといいます。このような状態にあるとき
源太郎さんの相談を受けて、事態の整理に当たったのが小山礼司氏でした。

小山礼司さんは私と同じ東映動画の一般募集1期生。1枚絵へのこだわりから

美術(背景作画)の方に進んでこの頃には独自の地位を築いておられました。
小山さんと源太郎さんの間にどのような縁があったのかはどちらにも直接聞いては

いないのではっきりしたことは判りませんが、東映第1期生9人の中では、小山礼司と

楠部大吉郎の両名は群馬県出身ですから、地域の名士である中島家とも何らかの

地縁があったものと思われます。

源太郎さんの依頼を受けた小山さんは絡んだ糸をほぐすように一つ一つこじれたハナシを

解消していきました。そうしてどうにか実製作への着手が出来そうになったのが昭和41年の

年末ごろということになります。
源太郎さんが「殺生石」映画製作を胸に大映を退社したのは昭和37年(1962)との

ことだそうですが、アニメーション製作会社「日本動画株式会社」を立ち上げられたのは

昭和41年(1966)、そしてやっと制作着手の目途が整ったのは42年になる頃と、実に

4年以上に及ぶ時間が掛ったことになります。

昭和42年(1967)の年が明ける頃、とりあえずひとしきりの環境が整ったと判断した小山さんは
旧知のアニメーターの中から私を選び、声を掛けてきたというわけでした。