去年(令和4年)の春先のニュースに、栃木県の景勝地、那須高原の奇岩

「殺生石」が割れたというのがありました。
「殺生石」(せっしょうせき)は平安時代後期、美女に化身した妖怪「九尾の狐」が
朝廷の要人をたぶらかして国に災厄をもたらす騒動ののち、退治され、ここ、

那須の地で石と化したのがすなわちこれと云う伝説のある奇岩で、国の史跡に

指定されているようです。

石はいたずらなど人為的な理由で割られたわけではなく、自然に割れたようですが、

「殺生石は妖怪の封じ石ではなく、退治された妖怪の化生したものという伝承なので、

妖怪が再び暴れ出したということではありません」などと解説される騒ぎにも

なったようです(笑)

このニュースは海外にも伝わっていったようで、インターネット時代の面白いところで、
このニュースを聞いた海外の人々の感想も見ることができるのを息子が見せてくれました。
曰く「まるでアニメのオープニングみたいな事件だ」「アニメのような千年前の伝説が
こうして今の時代にも生きているのが凄い」「アニメ化すべき」など
アニメに結び付けた感想が多くある様子。海外の人の目にもなんとなくアニメ向きの

題材と映るようです。

実は殺生石を題材としたアニメ、それも長編アニメーション映画はもう存在しています。
作られたのは昭和42年(1967、劇場公開は翌年)。

「九尾の狐と飛丸」ポスター

その映画の公開時のタイトルは「九尾の狐と飛丸」。

作ったのは、そう、私です(笑)

残念ながら現在は「幻のアニメーション」とまで呼ばれるようになってしまった

この映画について詳しくお話しましょう。


この映画を企画したプロデューサーの名は中島源太郎。大映系の

映画プロデューサーです。
源太郎さんはのちに政治家に転身され、衆議院議員となり、昭和62年(1987)には

竹下登内閣で文部大臣まで務められましたから政治家としても一流であったと

言って良いでしょう。

源太郎さんは中島飛行機の創業者中島知久平氏の子として生まれました。
中島飛行機は三菱重工と並ぶ戦前日本の二大航空機メーカーであり、陸軍

一式戦闘機「隼」などに代表される数々の名機を作っていました。知久平さんは、

海軍技官から将来を予見して我が国でも最初期に飛行機研究所を開設、

それを中島飛行機にまで育て上げた人です。
また、知久平氏は晩年には政界にも進出され、鉄道大臣なども務めており、

源太郎さんが後年政治家に転身されたのも政界の、政治家中島知久平を知る人の

誘いによるものとも聞きます。

この中島知久平さんという方はなんとも剛毅なお方であったようで、

なんと生涯独身であったが、その理由が「複数の女性を平等に愛するため」だと

いうのだから奮っています。
源太郎さんの母もその中の一人であり、源太郎さんが最年長の子であるとも

そうでないとも言われているようですが、そんな中で知久平氏は源太郎さんを長子に

指名して嘱望していたそうです。
そんな一筋縄ではいかない生い立ちのなせる技でしょうか、源太郎さんは大会社の

御曹司などというイメージとは少々異なる、極めて普通な印象を持つ常識人である一方、

大富豪特有の鷹揚さと、父ゆずりを感じさせる大胆で粘り強い実行力を併せ持つ

稀有なお人柄の人でした。

昭和4年(1929)生まれの源太郎さんは終戦の時16歳、敗戦によって中島飛行機は

活動停止、知久平さんは東久邇宮内閣に入閣したりして終戦処理に当たりましたが、

激務もあってか昭和24年(1949)に急逝。特別な位置で、飛行機を幾ら作って物理的に

対抗しても欧米には勝てないということを実感した源太郎青年が翌々年、慶応大学を

卒業して選んだ道は映画の道でした。
映画を通じ文化的に日本を欧米に対抗し得る国にしたいと志を立てた源太郎さんは

大映に入社し、プロデューサーとなって、数々の映画を作るようになったのです。

こうして映画プロデューサーとなった源太郎さんは社員プロデューサーとして

大映の映画を製作してゆく一方で、独自の映画構想を育てていきました。

それは栃木県・那須高原に伝わる伝説を題材とする映画でした。中島家は群馬県の

出身で、中島飛行機の実質的な本拠地も群馬でしたが中島家は那須にも土地を

所有しており、源太郎さんは当地の伝説に慣れ親しんで育ったとのことです。

その伝説こそが那須に伝わる「九尾の狐」と「殺生石」の伝説でした。

いっぽう飛行機が作れなくなった中島飛行機は、当座ラビット・スクーターなどを

作って糊口をしのいでいましたが、占領下の時代に一旦、軍需産業として解体、

群馬や東京西郊に散在していた事業所ごとにバラバラに分割されてしまいました。

しかし、占領が終わると主要な会社は昭和30年(1955)に富士重工業に再結集し、

33年(1958)には名車・スバル360を開発して自動車会社の一角を占めることに

なりました。現在の株式会社SUBARUです。
源太郎さんは富士重工の采配に直接的には関与しませんでしたが、やはり

オーナー格ではあり、監査役に就任しました。

源太郎さんは大映時代にも「殺生石」を題材とする映画を企画したようですが、

その企画は大映映画としては実現しませんでした。
その要因の大きなものとして源太郎さんは「妖怪」を題材とすることによる画面作りの

困難さがあると考えました。当時は現在のようなCGはおろか、怪獣映画として

発達してゆく特撮技術もまだ発展途上だったのです。
そうして辿り着いた結論が、自ら設立した独立制作会社によるアニメーションでの

制作でした。

昭和37年(1962)に大映を退社した源太郎さんはこのアニメーションでの制作を

具体化するため昭和41年(1966)に「日本動画株式会社」を設立、ほぼ自己資金での

「殺生石」映画の製作に着手しました。
当該映画の製作に情熱を燃やす経験ある映画プロデューサー本人が

豊富な資金を持つ大富豪であるというのは、映画製作環境としては一見望んでも

得られないような好条件にも思えるわけですが、
しかしこの映画は製作開始早々に困難な状況に見舞われていったようなのです。